江戸川大学社会学部3年 神田太郎

要約

アートとデザインの考え方

合理的なものづくりを通して人間の精神の普遍的なバランスや調和を探ろうとすることが、広い意味でのデザインの考え方である。言い換えれば、人間が暮らすことや生きることの意味を、ものづくりのプロセスを通して解釈していこうという意欲がデザインなのである。一方、アートもまた、新しい人間の精神の発見のための営みであるといわれる。

アートは個人が社会に向き合う個人的な意思表明であって、その発生の根源はとても個的なものだ。アーティスト本人にしかその発生の根源を把握することはできない。そこがアートの孤高でかっこいいところである。生み出された表現を解釈する仕方はたくさんある。面白く解釈し、観賞する、あるいは論評する、さらに展覧会のようなものに再編集して、知的資源として活用していくというようなことがアーティストではない第三者のアートとのつきあい方である。

デザインは基本的には個人の自己表出が動機ではなく、その発端は社会の側にある。社会の多くの人々と共有できる問題を発見し、それを解決していくプロセスにデザインの本質がある。問題の発端を社会の側に置いているのでその計画やプロセスは誰もがそれを理解し、デザイナーと同じ視点でそれを辿ることができる。そのプロセスの中に、人類が共感できる価値観や精神性が生み出され、それを共有する中に感動が発生するというのがデザインの魅力なのだ。

リ・デザインと第3の目

「リ・デザイン」というのは簡単に言うとデザインのやり直しである。ごく身近なもののデザインを一から考え直してみることで、誰にでもよく分かる姿でデザインのリアリティを探ることである。ゼロから新しいものを生み出すことも創造だが、既知のものを未知化することもまた創造である。

2000年4月、「リ・デザイン日常の二一世紀」という展覧会を原さんは制作した。

ファインペーパー(色やテクスチャーの豊富な紙)とゲラフィックデザインが織り成す歴史に焦点を当てた「紙とデザイン」という展覧会。紙とデザインの近未来を展望する「リ・デザイン日常の二一世紀」である。

リ・デザイン展では、具体的には、32名の日本のクリエーターに、極めて日常的な物品、たとえばトイレットペーパーや、マッチのような身近な物品のデザインを提案してもらった。各々ひとつずつリ・デザインの課題を担当してもらい、すべての提案はプロトタイプとして制作し、従来のものと対比する形で鑑賞できる仕組みになっている。

リ・デザイン展は既存のデザインをやり直すプロジェクトであるが、これは優れたデザイナーの手を借りて日常のデザインを改良しようという提案ではない。日用品というのは長い歴史の中で磨かれてきた熟成のデザイン群であり、いかに今をときめくクリエーターであろうと、短時間でこれを乗り越えることは難しい。一方で、提案されたデザインはそれぞれ明解なアイデアの切り口を持っていて、それらと既存のデザインの間には明らかな考え方の差異がある。この際の中に、人間が「デザイン」という概念を持ち出して表現しようとしてきた切実なものが含まれているはずなのである。このプロジェクトは差異の中にデザインを発見する展覧会なのだ。

坂茂と「トイレットペーパー」

建築家の坂茂さんのテーマは「トイレットペーパー」である。坂茂さんは「紙管」を使った建築で世界に知られている。坂茂さんが紙管を建築に使うことにははっきりとした理由がある。紙という一見脆弱(ぜいじゃく)に見える素材が実際には恒久建築に使える強度と耐久性を持っていることを発見した。さらに重要なのは、紙管が極めて簡単でローコストな設備で生産できるという建築素材としてのフレキシビリティへの着目である。生産設備の負担が軽いので生産する場所を選ばないことや、世界的に基準がはっきりしているのでどこででも同じ基準で調達できるということ。紙は再生可能なので、不要になったらいつでもリサイクルできるということなど、今後の世界にとって重要になりそうないくつもの要素がこの素材に潜在しているという点に坂茂さんは着目している。

リ・デザインしたトイレットペーパーは中央の芯が四角い。真ん中が四角だと必然的にトイレットペーパーは四角く巻き上がってくる。

器具に装填してこれを用いると引き出すときに必ずカタカタという抵抗が発生する。通常の丸いタイプだと軽く引っ張っただけでスルスルスルーッと滑らかに紙を供給してしまう。トイレットペーパーを四角くすることでそこに抵抗が生じる。ゆるい抵抗の発生はすなわち「省資源」の機能を生むわけであるが、資源を節約しようというメッセージも一緒にそこに発生する。真ん中を四角にするだけで、そこに劇的な変化が起こる。しかしこれは、世の中のトイレットペーパーを四角くしようという提案ではない。

「四角いトイレットペーパー」の発する「批評性」に着目すると、デザインは生活というポジションから見る文明批評でもある。デザインという考え方・感じ方はその発生に遡って批評的なのである。トイレットペーパーの芯の丸と四角。その差異の中にその批評性のリアリティを感じることができることであろう。

深澤直人とティーパック

深澤さんはプロダクトデザイナーであるが、普通のデザイナーが見ない微妙でデリケートなポイントでデザインをする。無意識の領域にデザインを仕掛けるデザイナーであり、それが効果を発揮していても人はそこにデザインが機能していることに気づかない。そこに戦略が働いていることを気づかせないで、ある行為を誘導したり、ヒット商品をつくったりすることができるデザイナーは脅威である。

人間の行動の無意識の部分を緻密(ちみつ)に探りながら、そこに寄り添うようにデザインを行うのが深澤さん流である。これは「アフォーダンス」という新しい認知の理論を連想させる考え方である。行為と結びついている様々な環境や状況を、総合的かつ客観的に観察していく態度が「アフォーダンス」である。深澤さんはアフォーダンスの理論からデザインを導き出したデザイナーではない。しかし、着目しているポイントがアフォーダンスの発想に近接しているのだ。その深澤さんに依頼したテーマは「ティーパック」である。

まずは、持ち手の部分がリング状になったもの。これはリングの色が、紅茶の飲み頃の色と同じになっている。ただし、これはこの色になるまで紅茶を入れなさいという指標ではない。長い間これを使っているうちに紅茶の色とリングの色の関係をしだいに意識するようになるはずだと深澤さんは考えている。自分はリングより濃い方が好きだとか、今日は薄めに入れてみようとかいう具合に。つまり色の意味を特に規定しないけれども、そこに意味が発生するための用意はしておく。つまり何かをアフォードする潜在性をデザインしておく、ということ。

もうひとつのデザインはマリオネット型のティーパック。紅茶を入れる仕草がマリオネットを操っている動作に似ていることからの発想だそうだ。持ち手がちょうどマリオネットのハンドルのような形になっていて、パックは人間の形である。リーフが濡れるとパック一杯に膨らんで、黒い人形になっていく。それを揺さぶっているうちにマリオネットを扱っているような不思議な気持ちになる。無意識にしかけられたデザインが行為を通してあらわになってくるのである。

リ・デザインからわかる、これからの創造

私たちの住まう日常は、既にデザインで埋め尽くされているように見える。そういう日常を未知なるものとして、常に新鮮に捉え直していく才能がデザイナーである。

二十一世紀は、見たことがないようなものが生み出されて、何を次々と確信していくのだろうと考えていたが、そういう発想はむしろ二〇世紀に置いてくる方がいい。新しい時代は、知っているはずの日常が次々に未知化されるように現れてくる。見慣れた日々のあらゆる隙間から、未来は少しずつ僕らの目の前に姿を現し、気がつくと僕らは未来の真ん中に座っている。新たなものが「波」のように海の彼方から押し寄せてくるようなイメージは過去のものである。

一方でテクノロジーの変革が生活の根幹に影響を及ぼし、世界を席巻していくというイメージもまた幻想である。テクノロジーは生活に新しい可能性をもたらしてくれるだろうが、それはあくまで環境であり創造そのものではない。テクノロジーがもたらす新たな環境の中で、何かを意図し、実現していくのは人間の知恵である。

世界全体を合理的な均衡へと導くことのできる価値観やものの感じ方を社会のいたるところで機能させていかないとうまくやっていけないということ。フェアな経済、資源、環境、そして相互の思想の尊重などあらゆる局面においてしなやかにそれに対処していく感受性が今、求められているのである。

デザインという概念は、そんな感受性や合理性に近接した位置にはじめから立っている。そういう意味でデザインという概念の本質が見つめ直されようとしている。

まとめ

私たちの暮らす日常には様々な日用品と呼ばれる道具がある。その道具には何らかの使用方法があり、決められた形になって流通している。しかし、時にそれは違った使われ方、変形により新たな使用方法が見出される。要するに私たちが使っている日用品にも見方を変えることにより新たな価値が生まれるということである。

第二章に記載されている事例の中で今回は坂茂さんと深澤さんの事例を取り上げてみた。2人の事例を取り上げた理由として、誰もが当たり前に使っているものの中にメッセージが隠されているという部分にとても共感でき、実際に日用品として使用していたら私も騙されていただろうと感じたためである。

日用品には「当たり前」という考え方が含まれているのではないだろうか。この当たり前には、“なくてはならない”と“あるもの”という2つの考えた方が隠されていると私は思う。なくてはならないとは、誰もが必要としているものであり平等であって欲しいと思う「人の欲」が含まれている。あるものとは、そこにあるから使う。という必ずしも必要としていないがその「利便性」に満足していることから生まれたものをいうと私は考える。

現代は大量生産大量消費の時代と呼ばれているが、誰もが求め、利用したいと思ってもらえなければ過去のものになってしまうという恐怖が生産側にあるため、どうしても競争社会になってしまうものである。しかし、新しいものを登場させることに対して消費者は見慣れることがあるかもしれない。最先端を求めることに希望は見えても、欲は生まれないかもしれない。そういった時代だからこそ見直すという行為は、最先端に見える。

今あるものの、見え方、捉え方を少し変えることで新しいものを生み出すことが出来るのはデザイナーだけでないと私は思う。小さなものから大きなものまで広い視野を持つことにより、普段見落としていたものが見つかる。それこそ、最先端への近道かもしれない。