子供が小4 小2 年中だった冬、
舅姑とのトラブルがあり
心身症になった。
それ以降、
姑からの電話が鳴る度に
震えが止まらなくなり、
子供達が電話に出てくれていた。
「ママ、
私が電話に出るから大丈夫だよ」
その言葉に甘えながら、
子供達の気丈さに助けられていた。
でもまだ小さい子供達。
母としてこの子達を
立派に育て上げる事が、
私の使命だと思っていた。
長女が小学校を卒業した春休み。
我が家に大きな雷が落ちた。
それは、
妻としても母としても
出来損ないである
私を追い出すという話。
このまま私に育てられたら
子供達が可哀想という理由を
姑から聞いた。
裏切られたと思った。
住み慣れた東京の我が家から
実家のある大阪に
子供を3人連れて越してきた。
主人はもちろんいない。
新しく通う事になる中学校に
2人で訪れた後、
合格していた中学校に行けなくなった
長女が言った。
「たった1日で全てが
変わってしまう事があるんだね」
ごめんね、という言葉を
奥歯に挟みながら、
頑張ろうねとしか
声をかけられなかった。
両親や妹達の家族に
心からの援助を受けて、
新しい生活が始まった。
けれどその一年後、
大阪に転勤になった主人と
同居を始める事となった。
ギリギリの精神状態で
一年を過ごした子供達の心は、
同居を機に更にヒビが入っていった。
母親として子供達を守らなくては。
子供達は私の庇護下でなければ
守れないと信じ込んだ。
しっかりしなくては
と思う気持ちとは裏腹に、
あっという間に私の心は壊れていった。
それから数年の間、
私には様々な記憶がない。
気付けば、
子供達はそれぞれの真っ暗な部屋で
食事をとっていた。
音のない家になっていた気がする。
まだ小学生だった末っ子だけが、
毎日学校へ通っていた。
大阪に帰って来た時に
思い知らされた自分の経済力のなさ。
そしてまたいつか
裏切られるかもしれないという
静かな恐怖。
だからこそ仕事をし続けなくてはという
強迫観念。
そして仕事に集中している間は、
壊れてしまった現実を
見ないで済むという事実。
心を病んでいた私にとって、
仕事をしている時だけが
元気でいられた。
仕事に全てのエネルギーを
費やしていた私は、
家の中では廃人のようだったのでは
ないか。
妻でもなければ母でもない。
そして私自身でもない。
私の中の必死さは、
ずる賢さで塗り固められた
ものだったのかもしれない。
世間の常識とは
全くかけ離れた状態を
肯定するには、
そんな方法しか
思いつかなかったのだと思う。
末っ子が小6の2学期が
終わろうという時、
仕事をクビになり
家にいる事になった
私が目にしたのは、
私の知らない子供達だった。
食べ物の好き嫌いさえ
私の記憶と違っていた。
同居を始めてからの4年以上の間、
ただ必死だったという事しか
記憶になかった。
自分を取り戻し、
セミナーに通い出して
長女に言われた言葉。
「ママが楽しそうに
取り組めるものが
見つかって良かった。
私達子供の事に
一生懸命すぎるから、
みんなが独立した後、
ママがどうなっちゃうのか
心配だったんだ」
長女はまだまだ辛い状態にいた。
それなのに私の事を
心配してくれていた。
次女も三女も同じ気持ちで
いてくれていたのだ。
もともと家事が苦手な私は
鬱になってさらに下手くそになった。
いつまでたっても家の中は
ごちゃごちゃしている。
それでもリビングで
娘達が笑って話している
姿を見るだけで、
幸せな気持ちになる。
そして今思う。
出来損ないのどこが悪い。
出来ない事は、
これからいくらでも
伸び代があるということ。
それに、
なぜそれが出来ないと
いけないんだろう。
出来なければ、
別の人が補えばいい。
そして出来る事を、
楽しい事をいっぱいいっぱい
伸ばしていけば良いじゃないか。
家族なのだから。
ずっと子供達に肯定し続けて
もらえたからこそ、
今の私がいるように思う。
勿論、
両親がどんな状況の私も肯定し、
心から支えてくれた事も
大きいだろう。
私がこれから大切にしていく事は、
Yes and more。
どんな状況もまずはYes。
そして、more 。
どうしていこう。
Yesの扉を開いたら、
次にどうしようか、
の選択肢は無数にある。
気付けて良かった。
夜遅くまでテレビを見ていると、
「こんな時間だから、
もう消すよ」
そう言って部屋に戻る娘の後ろ姿が
愛おしくてたまらない。
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