「悲運の名将」西本幸雄さんが逝った。


 昭和44年の或る日、初めてテレビでパリーグの試合を見た。
熾烈な首位争いを繰り広げていた 近鉄バッファローズvs阪急ブレーブスの試合だった。

 この試合の近鉄の監督は就任2年目の「魔術師」三原脩 阪急の監督が西本さんだった。
たまたまこの時、近鉄を好きになってしまったことが、その後数十年に渡る、私の不幸?の始まりだった。

生活の全てが近鉄バッファローズになってしまった当時8歳の私にとって、近鉄がどうしても勝てない阪急は巨悪そのもの。

その阪急の監督の西本さんが憎くて仕方がなかった。
口を「への字」に結び、全く笑顔を見せない無愛想なこのライバル球団の監督が大嫌いだった。

西本さんは弱小チームだった「灰色の阪急」を常勝軍団に育て上げたが、昭和49年、愛弟子の上田利治に後を託し、何と近鉄の監督に就任した。

「あの憎い西本が近鉄の監督になる?」
私の幼心は最初は複雑で受け入れがたかったが、近鉄の西本監督に心酔してゆくのに、それほど時間はかからなかった。

西本さんは当時、高校出たての若手だった、梨田昌孝、羽田耕一らをしごき上げ、「パリーグのお荷物」近鉄を徐々に勝てる軍団に育てていった。

愚直なまでにコツコツと基本練習を繰り返し、絶対に妥協をしなかった。

当時の近鉄の大エース、鈴木啓示がオープン戦でメッタ打ちにされると対戦相手の若手投手を指差し、「少しはあのピッチャーを見習え!」とやった。
これには鈴木が激怒しトレードを直訴したという。

 また、「山口高志の高めの速球には手を出すな!」という指示にも関わらず、高めのストレートを空振り三振してベンチに戻ってきた羽田耕一に鉄拳を振るい、ベンチ内を凍りつかせたこともあった。

一見、傲慢とも見える指導法に、当初近鉄の選手は戸惑ったが、それが深い愛情に裏打ちされたものであることを次第に知るようになる。

トレードを直訴していた「天皇」鈴木啓示も「このオッサン本気なんやな!」と西本監督を慕うようになっていった。

 そして就任5年目の昭和53年、弱小近鉄を球団創設30年目にして悲願の初優勝に導く。
翌昭和54年もパリーグ連覇、しかし「江夏の21球」に敗れ、日本シリーズでは一度も勝つことは出来なかった。

そして昭和55年に勇退。

 最後の試合となった 近鉄対阪急戦の試合終了後、何と近鉄、阪急両方の選手が総出で西本さんを胴上げした。

 西本さんが阪急の監督を辞め、同一リーグ近鉄の監督に就任したとき、近鉄との契約の席に阪急の森薫オーナーと近鉄社長の今里英三が仲良く同席する前代未聞の形となった。

そこには純粋に、高潔に、野球しか見えない。
後に野村克也や星野仙一が阪神タイガースの監督に就任したときのような非難めいた議論は一切起きなかった。
西本さんの人柄が窺い知れる話である。

こんな話もある

元近鉄の応援団長で現在作家の佐野正幸さんが中学生のころ、当時阪急監督の西本さんにファンレターを書いた。
当然返事など期待していなかったが、見事な達筆で返事が届いた。

 それをきっかけに二人は文通を始めたが、佐野さんは北海道在住だったため、球場に西本さんの試合を観に行くことはなかった。

後に西本さんは近鉄の監督になるが、佐野さんも徐々に近鉄のファンになっていった。

 後年、佐野さんは就職活動のため上京した折に念願の近鉄の試合を観戦する。

試合終了後、球団のバスに向かう西本監督に「僕が札幌の佐野です!」と声をかけたところ、「ここに電話しなさい」と宿泊先のホテルのマッチを手渡されたという。

 西本さんは佐野さんに就職の世話をし(近鉄百貨店)さらに佐野さんの結婚式の仲人まで務めた。

縁もゆかりもない、一中学生のファンにここまでする西本さんの律儀さ、愛情の深さを示すエピソードである。

佐野さん元気かな? 死に物狂いで一緒に近鉄を応援していた頃を思い出すと、こみ上げるものを抑えることが出来ない。


母子家庭に育った私は、いつしか西本さんが自分のオヤジのように思えてきた。

頑固で寡黙で滅多に笑うこともなく、冗談も通じない無愛想。
実は律儀で深い愛情を持って本気で人に接する。

こんな人が自分の父親であったなら心底尊敬するだろう。


その西本さんが逝った。

私の中で、またひとつの時代が終わった。

今のどこかの球団のように、オーナーも球団社長も、商売や利権のことで対立したりせず、純粋に野球に勝つことだけに邁進したあの時代。

その時代の象徴だった西本さんが逝った。

ありがとう西本さん!
頂いたサイン色紙は形見として、家宝として、一生大事にします。
そしてあなたのことを生涯忘れません。





最後のゲンコツ親父 西本幸雄氏に捧ぐ