この最高裁判決の結論自体は確立されていて,恐らく将来も決して動かないでしょうが,

「この判例が前提とした事実」や,「この判例が特に言及しない事情」について考えるのは,社会全体にとり,非常に重要なことであると思います。
 

1.まず,この判例については,「この患者は自らの確信的な信条に基づいて考え抜いた決定をしているから,その選択を否定できない」という判断であると理解されることが一般的であると思います。そしてその判断は確かに正しいです。

 

しかし,同時に,法的判断を離れた「現実状況」を考えると,すべてのエホバの証人信者による輸血拒否事例にこれが当てはまるかどうかは疑問です。そして,このことを感覚的に理解するには,最高裁がこうした判断に至った「このケースの具体的事情」を理解することはとても重要であると考えます。
 

①この判例の輸血拒否患者は,公開されている情報(最判平成12年2月29日民集第54巻2号582頁)によれば,平成4年の手術当時に63歳と比較的高齢であり,突然の事故等により緊急手術を受けたわけではなく,悪性肝臓血管腫によりほかの病院から東大病院に転院してきた患者さんでした。輸血拒否を原因として亡くなったわけではなく,手術の結果すぐに悪性腫瘍が転移していることが判明し,手術から4年後の平成9年に亡くなっています。また,公表されている判例集によれば,ご本人は昭和38年からエホバの証人信者であり(これは日本でも珍しいほどの古株),子供も信者でした。さらに,この患者さんは,日本におけるエホバの証人の最高幹部の一人の非常に近い親族であったようです。

 

②実に人生の半分以上をずっとこの宗教の信者として過ごし,近い親族も同じ宗教信者であり,しかも自分は悪性の癌にり患していて余命が長くないという場合,「自分の人生の最後に至るまで宗教信条を貫きたい」と考えることは良く理解できることですし,ずっとやってきた自分の宗教に最後まで自分の人生をささげたいと本人が希望するならば,周囲もこれを尊重するのは自然なことですし,一般的に考えてもそうする方がその人の幸福に資するし,周囲のショックも少ないと考えられるかもしれません。

 

③この患者さんは,最高裁判決が出る前に亡くなられましたが,最後まで自分の信条を貫き,周囲の信者,まさに日本中・世界中の信者からその行動ゆえに畏敬の念をもって見守られ,当の宗教団体からも支援を得ながら訴訟を最後まで戦えば,ご本人の人生最後の時点の満足度は相当に高かったのではないかと想像されます。しかも,突然,輸血拒否の選択を迫られたわけではないですし,輸血拒否が原因で亡くなったケースでもありません。

 

④つまり最高裁判所は,「死に至っても輸血は受けないという当事者の確固たる意思の存在」をまずは事実として認定して,

その事実を前提に結論を出していますし,その結論は判例法理になったわけですが,

その「確固たる意思に至った経緯」,つまり宗教上の教義の内容の是非については,当然に審理の対象にはしていません。

 

⑤話は戻りますが,私自身が,母親の「死に至っても輸血は受けない」という決断を最後まで守り通したのも,言ってみればこの最高裁判決の状況に酷似していたからでした。

繰り返しになりますが,「輸血拒否」の決断に直面した際に,母はすでに40年以上エホバの証人の信者であり,その人の全ての人生はその信仰に立脚しており,「死に至っても輸血は受けない」という決意が揺らがないことを確認する機会は,何年にもわたり事前に幾度となくありました。そして母は70代半ばと高齢でした。

このような状況でしたので,「母がそのような決意を深めるに至った宗教的理由」はとにかく無視しして,外形面の生活環境から言って,「当事者の確固たる意思」が明確であったので,それを最後まで尊重しました。

 

2 私が,社会が考えるべきと感じるのは,「全てが全てこういうケースであるのか?」という点です。

現実に起こりうる輸血拒否のケースはこの患者さんのケースとは全く違うケースが想定されてしかるべきであるように思われます。

これは言うまでもなく,妊産婦の突然の大量出血や,交通事故のケースなどです。
 

①2007年5月には,大阪医科大病院で出産した妊婦が弛緩性出血で大量出血し,輸血を拒否して数日のうちに亡くなりました。

②1996年7月8日には,鹿児島県でカヌーと漁船の衝突事故に遭った妊娠5カ月の28歳の主婦が,輸血を拒否した後,事故の4時間半後に出血多量で死亡しました。

③1989年8月22日には,浜松市内でバイク事故に遭った17歳の男の子が,輸血を拒否したのち,事故発生から5時間経たずに失血死しています。
④1985年6月6日には,川崎市でダンプカーに両足をひかれた10歳の男の子が,両親が輸血を拒否したのち,事故発生から5時間経たずに出血多量で亡くなっています。

(いずれも公共のニュースで報道されています。また,「輸血拒否後の失血死」の事例は,現在ではニュース性を失っているため,他にも日本中のあちこちで起きていたとしても,もはや報道はされていないのではないかと想像します。)

 

勿論,現在は,医学会がガイドラインを作成しており,成人・18歳以上・15歳以上などに大別して,それぞれの判断能力に応じて,本人や家族の意思表示に反して輸血治療をするかどうかの大まかなルールが策定されています。また,幼児等が輸血を必要とし,両親が拒否する場合には,家庭裁判所が「親権停止の審判」をして,他者が親権を行使できるようになっています。

 

しかしながら,私が,社会が目を向けるべきではないかと思う点は,

例えば18歳で判断能力を備えているとみなされる若者,もっと言えば,10代でなくとも20代くらいの若い妊婦さんが,「死に至っても輸血は受けないという当事者の確固たる意思」を表明する場合,それは,その時点では「確固たる意思」であったとしても,もしその後生き続けた場合,あとで振り返って「あの確固たる確信はまずかった」と後悔しないほどの正しい判断と言えるのでしょうか。

 

或いは,たかが10代後半,或いは20代の短い人生で,「のちの人生全てを捨ててもかまわない」と考えるほどの,強烈な信仰を持つ理由は何なのでしょうか。その「信仰を持つに至る過程」に,疑問を抱かせる要素は存在しないのでしょうか。

 

人が持つ信仰そのものは,尊重されなければなりません。

しかしその,「なぜ,死をも選択するほどの強烈な信仰を抱くにようになるのか」「そのような強烈な信仰を若くして持つに至る経緯」については,社会は関心を向け,客観的で理性的な分析を試みるべきではないのでしょうか(このことは,信仰を尊重することと矛盾しません)。

 

なお、この点について、2013年の9月27日には,オーストラリアのシドニーの最高裁判所が,医師から「輸血しなければ80%の確率で死亡する」と告げられたにも関わらず輸血を拒否していた17歳の患者に対して,「少年は高い知性を備えている」ことを認定したうえで,「生まれてからこれまでずっと,エホバの証人の教えの殻の中に閉じ込められてきた」と判断して,輸血治療を命令する事案があったようです。

 

 

意思表示ができる高年齢の未成年者や若年成人のケースについては,一般論的にはこちらの理解の方がしっくりくるような印象があります。

 

3 最高裁判例は,「死に至っても輸血は受けないという当事者の確固たる意思」の存在が確認できれば,その意思は,まさに本人が死んでも尊重すべきであるという判断を下しており,「その確固たる意思に至る過程は大丈夫なのか」という点は法的には全て捨象されてしまいます。

 

つまり,逆に言えば,ある意味,そのようになる過程はどうであれ,一度,このような「本人の確固たる意思」が確認されてしまうと,他の者は何も言えなくなってしまう状況,と評価すべきように感じます。

こうした状況がもたらす結果を深く嘆き,一生後悔する「エホバの証人信者親族」は,日本中・世界中にどれほどいるのだろうかと考えます。

そして,「宗教信条による輸血拒否」はすでに確立した法理論・医療上の確立した対応になっているため,上述のとおり,もはやニュース性を失っていて,今後も輸血拒否で若い人が亡くなったとて,もはやニュースにもならず,「それはその人の決断だし,それを尊重するのが社会のルールだから」と言って特別な関心を向けられないのだろうと感じます。

 

しかし,それでよいのでしょうか

 

「なぜエホバの証人は,死に至っても輸血を拒否するという強烈な確信を抱くようになるのか」

「その確信を抱く過程に,疑問を抱かせる余地はないのか」

この点に,社会は目を向けるべきではないのでしょうか。

 

私自身は,「なぜエホバの証人はここまでの確信にいたるのか」という点について,社会全体がもっと目を向けるべきであると考えていますし,この点についての自分の考えを知っていただきたいと思っているので,次回以降,その点について書きたいと思います。