近代資本主義とゴルゴ13と必殺仕事人

 

(近代)資本主義と(殺し屋)が関係あるのか、関係があるから、物語になるのである。

ゴルゴ13も藤田まこと扮する「必殺仕事人」もカネを受け取って人殺しをする点では、同一である。

 

「カネを受け取ったら、必ず仕事をするというのが資本主義だ。

殺し屋においても同じで、その代表が『ゴルゴ13』である。

 

彼はカネを受け取ったら必ず殺す。契約を破ったり、裏切った依頼者は殺される。

資本主義における殺し屋の鑑だ。

 

この場合、ゴルゴ13に渡されるカネはビジネスの対価である。

純粋な報酬である……(中略)……

 

買収においても同様で、買収されたら、その通りのことを実行しないといけない。

そうしなければ信用を失う。この時、必ず値段が付く。これだけの仕事だから幾ら、と。

双方それでOKということになって商売成立というわけだ」

(小室直樹・日本いまだ近代国家に非ず・ビジネス社刊156頁)。

 

同じように見えるカネを受け取ってする殺人であっても、日米ではその意味が違ってくるようだ。

藤田まこと扮する必殺仕事人の方は、依頼人がカネを支払わない場合には、殺しを引き受けない。

 

ある時、必殺仕事人の仲間に新人(長崎に留学して来た新米医師という設定だ)が加わるが、その新人は、藤田まことにこう言う。

 

「おじさん、おじさん、あいつは悪い奴なのだから、無償で殺ってやろうよ」。

しかし、藤田まことはこの新人を諭す。「バカ、無償で殺ってやれば自分が正しいと信じ込んでしまうのだ、俺たちはオマンマのためにやっているのだ」と。

 

しかし、必殺仕事人達には、相場つまり対価が決まっているようで決まっていないのだ。

小判何枚、という具合には。

 

だから、怨みをはらすためならば、自分の身を苦界に落とし、カネを作る娘も頼み人として描かれることになる。殺しが、ビジネスではないのだ。

 

それでは何なのだ?

 

資本主義というものにも発展段階(?)というものがあるようなのだ、というよりもその社会で「資本主義」のあり方がちがっているのである(例えば、アメリカ社会と日本社会とでは違うように)。

 

われわれが、海外と取引する場合、その社会がどんな「取引社会」を形づくっているかを研究しなければならない。

 

経験を有している企業人は沢山いるが、日本の「経済学」はアメリカ式に偏しているようだ。

われわれは「日本式資本主義」の「経済学」を理論化しなければならない。

 

「契約」は「近代資本主義」とともにあり、「近代資本主義」はキリスト教とともにあるのである。

 

日本は、アメリカの政治経済等を含む力の衰えにより、好むと好まずに、世界のなかでの役割が、大きくなってしまった。

 

これからは、ゴルゴ13と必殺仕事人に、「殺し」の技(?)を学ばなければならない時代に入ったという自覚を持たなければいけないのである。

 

すなわち、現在、巷にあふれている「経済学」や「経済評論」の類の中から、日本人のための「経済学」を研究しなければならないのである。

                                                以上