忘れ物を取りに行きました | ✧︎*。いよいよ快い佳い✧︎*。

✧︎*。いよいよ快い佳い✧︎*。

主人公から見ても、悪人から見ても、脇役から見ても全方位よい回文世界を目指すお話


 血の気が引いたまま、身体から力が抜けてしまいそうになるのを必死で堪え、足を動かして走っていた。
 途中で何度か転び、あちこち傷だらけだがそれどころではない。あまりに強烈な恐怖を覚えたからだろうか。
 
 後ろから追いかけて来る醜女たちを追い払い、息も絶え絶え、私は死にものぐるいだった。
 ここは死者が棲まう黄泉の国。空は夕暮れに灰色を落としたように薄らと暗く、大地には水分がなく乾いている。
 

「イザナミ……」


 私は、夫婦で国生みを任された神、イザナギノミコト。
 その、誰より大切な妻であったはずの女性は、つい先日子を産み、そして命を落とした。その子どもが全身に火を纏い、酷い火傷を負わせたからだ。
 イザナミが息絶えた瞬間、視界が真っ赤に染まった。激昂し、私は子どもの首を天之尾羽張という剣ではねた。私から最愛を奪った憎しみしか感じられない。愛せるはずがないだろう。

 それでも怒りは治まらない。
 虚しさと哀しみは増すばかりで、虚無感に呑まれていく。
 ましてや神としての務めなど果たせない。

 妻の死を受け入れられず、私はこの黄泉の国まで、それこそ命がけでやって来た。何としてでも連れ戻すという一念だった。

 ところが妻であるイザナミは、既に黄泉の国の食べ物を口にしてしまい、帰ることは出来ないと言う。黄泉の神を説得してみると姿を消したイザナミの後をそっと追い、覗き見て腰を抜かした。

 生前の美しさはかけらも残っておらず、顔は爛れ、皮膚が削ぎ落ち、まるで化け物のような姿になっていたからだ。
 筆舌に尽くしがたいおぞましさに悲鳴を抑えきれず、気づけばこうして逃げていた。私のこの所業を咎め、イザナミと黄泉の国の亡者たちが追いかけて来たのだ。


 あんなに幸福な日々は何だったのだろうか。
 全ては、あの子が……あの子の。



「待て、イザナギ! このままみすみす逃すと思うのか!!」


 気を逸らせるために投げた桃の果実を食べていたはずの醜女が、腐敗臭を漂わせて石を投げて来た。
 出口まであとどのくらいなのかわからない。この地獄絵図から助かる方法などあるのか。
 私は、懸命に走った。
 何故こんな目に遭うのかと、怒りが湧き上がる。


『そちらではありません、こちらへ』


 突然、数匹の蛍が私の向かう前方に現れ、行く手を遮るようにして取り囲んだ。
 そして、左手の鬱蒼と茂っている黒い森のなかへ誘導しようとする。


「騙されんぞ……! お前たちも奴らの仲間だろう! 私を捕らえようとしているのなんてお見通しだ!」


 蛍を振り払うようにしてブンブンと手を動かす。見るからに怪しい森のなかへなど誰が入るものかと。


『こちらです』


 しかし、蛍はそれでもしつこく私を押し込めようと目障りな動きで飛ぶ。
 後ろからは醜女たちが今にも追いついて来る寸前だった。もはや選択肢はない。


「もしもこれで私が死ぬようなことになったら、私は神としてお前たちを許さないからな」


 半ば脅すように吐き捨て、黒い森のなかに入った。
 入り口は黒かったが、なかには星屑を撒いたような数の蛍が飛んでいて、まるで宇宙のような光景が広がっていた。


『こちらです』


 蛍に案内されるように、私は走った。水の気配はどこにもないのに、ザアザアと川が流れているような音がしていた。
 蛍は宝石のように美しく、私は触れてみたい気持ちになり、ふと手を伸ばす。


『いけません』


 まるで叱られるように止められて我に帰った。それどころではない。
 それどころじゃないのだ。私は両手で頬を叩いて叱咤する。



「まだ……まだ出口につかないのか……っ」


 体力は限界だった。黄泉の国は管轄外だからか、神力が使えない。姿を消すことも、飛ぶことも瞬間移動も何も出来なかった。
 黒い森を出ると蛍はいなくなり、もう出口かと期待をしたのだがどこにもそれは見当たらない。


「待てえええ!!」


 また見つかってしまった。もう、奴らの気を引かせる果実もなければ気力さえない。
 万事休すか、と言うところで、


『こちらです』


 また、声がした。そして今度は尾が光る鳳凰が頭上をくるくると旋回している。
 助かった、と思った。鳳凰は神の遣いだ。
 鳳凰は、右斜め前にある洞窟に入って行く。鳳凰の導きならば疑うことはない。私は、迷うことなく後ろから続いた。

 
「喉が渇いた……」


 細長い洞窟の一本道をひたすら進む。水の音を聞いてしまったからか、渇きが酷くなる。
 だが、この国で何かを口にすれば間違いなく帰ることが出来なくなるだろう。
 朦朧とした意識のなかで、光る鳳凰の尾から目が離せない。
 手を伸ばした。


『いけません』


 そして先程と同じように、厳格な声で止められる。この、夢も希望もないようなどん底の世界で、光の暖かさがどれほどに恋しいか。眩しいか。心細さを埋めたかっただけなのに。


『このまま進んでください』


 そして、狭い洞窟から抜けると、鳳凰は蛍と同じように留まった。
 目の前には、最後の試練だとでも言うように、長くて急勾配な坂が続いている。
 へなへなと力が抜けて、座り込んだ。


「くたびれたなあ……」


 もう、諦めたほうが良いのかもしれない。絶望感しかなかった。
 身体は今にも倒れてしまいたいと訴えてくる。


『こちらです』


 またか。今度は誰だ、と、四つん這いになった顔を上げた。
 有難いのかそうでないのかわからなかった。


『諦めてはいけません。この黄泉比良坂を抜ければ、あなたは生きて帰ることが出来ます』


 足元に、小さな松明が落ちていた。震える手で木のたもとを持ち、足に力を入れて立つ。


『さあ、しっかりして。前に進むのです』


 周りの景色は何も見えない。だが、あの水の音はこれまでで一番大きく聴こえている。
 水の音に向かうように、私は一歩一歩踏み出した。


『頑張って。希望を捨てないでください』

『頑張って。立ち止まってはいけません』

『頑張って。あなたなら出来ます』


 励まされながら坂道を登る。喉の渇きはもう頂点に達していた。
 松明の火が小さくなっていく。


 頑張れ頑張れと、うるさい。黙ってくれと言ってしまおうかと、カラカラの口を開いた。



『あなたを待つ家族がいるでしょう』



 家族………?

   家族なんて。最愛の妻は死んで、見る影もなくなってしまったのに。
 他の子どもたちだってもう、手元にはいないのに。

 視界が歪んでいく。


 その時、パチパチ、と松明の火花が勢いよく爆ぜた。

 正気に戻れ、と言われたかのように。




「………カグツチ?」



 唐突に、私のなかに一つの名前が浮かんだ。
 松明の火が揺れる。
 小さく、小さくなっていく。



「お前……」



 まさか。まさかそんな。
 私は、握っている松明の火を見つめて震えた。


 そんなわけがない。
 自分は、イザナミの死の原因となったカグツチを、我が子を手にかけたのだ。
 お前のせいで妻を失った、と、親にあるまじき恨みをぶつけて、剣で首を。


 こんな父親を救おうとなど、するはずないではないか。




『いけません。前に、出口に早く』



 それでも松明は、私を促す。
 ありえない。ありえないのに、この直感は間違いなくあの子だ、とわかった。



「カグツチ……」
『いけません!!』


 触ったら火傷をするから、と言う声を無視して、私は松明の火に手を入れた。


 不思議と、何も痛みも熱さも感じなかった。




「ああ……やっとだ。やっと、触れた。あんまり綺麗なのに、お前が駄目だと止めるから」


 蛍の灯りも、鳳凰の尾の光も。
 触れるに相応しくないと証明されたようで。
 でも違ったのだ。
 カグツチは、私を守ろうとして。



「この子は、何も悪くないのです。全て、私のために、罪を被ってくれたの」


 言葉が出ず、立ちすくんでいると、ふわりと桃の香りが漂った。



「イザナミ……!」


 妻が後ろに立っていた。紫の皮膚はやはり腐って落ちかけひどい姿だったが、恐怖が嘘のように心のなかから消えている。

 

『やめてください!』
「いいの! いいのよ、カグツチ。ごめんなさい、あなた……私は、もう長くないとわかっていたの。黄泉の国から知らせが来ていたのに、どうしても離れ難くて、足掻いた。寿命を無理やりに伸ばしてしまったわ。取り返しがつかない事態になるまで」


 何だって?
 イザナミは、飛び出しかけた眼球から涙を流した。


「今の私のこの姿は、黄泉の国の食べ物を口にしたからじゃない。身体のなかで歪みが起きて、もうどうしようもなくなっていたの。このままでは、あなたにも、他の子どもたちにも、地上にも感染をしてしまうとわかった。だけど、私は神だから、自ら命を絶つことは許されない。そうしたら、この子が……この子が」


 火には浄化をする力が宿る。 
 何もかも焼き尽くす以外に道はなかったのだ、と、最後まで聞かなくても悟った。



「では私は、何も知らずに勘違いをして我が子を」


 手が、身体が痙攣をするように揺れる。足元が抜け落ちていくような衝撃が走る。
 カラリと音を立て、松明が地面に落ちた。


「私は母親ではないわ。妻でもない。愛しい子をこんな目に、かわいそうな目に遭わせて、あなたの手を汚させて」


 イザナミが、愚かな自分を悔やんでも悔やみきれない、と泣いた。
 それは私のほうなのに。



『違います。僕が、頼んだのです。おかあさん……と、一緒に行きたかったから。一人にしたくなくて……だから、お父さんには一番むごい役目をさせてしまった』


 火の煙が、ぼんやりと人型になる。小さな小さな背丈の。

 お父さん、と呼んでくれるのか。
 こんな私を。
 お父さんと……


「……ごめんなあ……ごめんなあ。お父さん、馬鹿だったなあ……カグツチ、お父さん、馬鹿でごめんなあ……」


 たまらずに私は、腕を伸ばして抱きしめた。
 

「やめて、やめて……! 痛いでしょ…! お父さんまで死んでしまったら」


 真っ赤に色づく炎が暴れる。
 本当に不思議なことに痛くも熱くもない。
 肉が焼けるような、嫌な臭いだけかする。


「痛くないよ。痛くないよ。お前の火は、痛くないよ」
「そうよ。ちっとも痛くないわ……お母さんも痛くない」


 前から私が、後ろからイザナミが挟み込みながら、炎の我が子にゆっくりと語りかける。
 二人で繰り返す。大丈夫だよ、大丈夫だよと。


「ありがとう、カグツチ。お母さん、やっとお前を抱っこできるわ」
「ああ……ありがとう、カグツチ。馬鹿なお父さんの代わりに、お母さんを助けてくれて」


 イザナミの顔が、在りし日の美しさを取り戻していた。
 私は本当に何という愚か者だったのだろうか。
 自分だけが不幸だと嘆いて、全てをカグツチのせいにして。
 どんな変わり果てた姿になろうとも、受け入れることさえ出来ないくせに。



「お父さん、お母さん……っ」


 わあああん、と、高くてか弱い子どもの声でカグツチが初めて泣き縋った。
 

「生まれて来てくれてありがとう、カグツチ」


 親子であることを何故忘れていたのだろう。
 何故、あの時にこう言ってやれなかったのだろう。

 こんなに可愛い息子だったのに。
 きっと、あの時だって可愛かったはずなのに。
 目が曇っていた。
 心が闇で覆われていた。



「さあ、戻って……今ならまだ間に合うから」

 
 イザナミが、私の腕を押す。
 だがもう、帰りたいとは思わなかった。
 このまま、親子三人でやり直せるならば、黄泉の神が認めてくださるように願い出よう、そう決意していた。


「いけません」


 三たび聞いた声で、カグツチが言う。
 私の考えを見抜いているように。



「お父さん。僕はもう、かわいそうな子じゃありません。お父さんは、僕だとわかってくれました。十分嬉しかった。だから帰って。家族は、子どもは僕だけじゃないでしょう」
「そうですよ。あなた……私の分まで、あの子たちをお願いしますね。ここから信じて見守っていますから。あなたの分まで、私がこの子の傍にいるから」


 ゴゴゴゴゴ……と、大きな岩がひとりでに右にずれていく。いつの間にか、黄泉比良坂の天辺までたどり着いていた。



「イザナミ、カグツチ!!」


 パチパチと燃える火が大きくなる。
 水の音が負けないくらいに大きくなった。



「離れていても、私たちは一つよ」


 私は、岩の向こうの光に向かって、イザナミにトン……と肩を押された。




 情け無い、弱い夫でごめん。
 逃げ帰ろうとしてごめん。



 愛している、と叫んだ私の声は、妻に届いただろうか。




❇︎




 バシャン!! と、飛沫をあげて身体が川の中に落ちた。


「ぐ、あ……っ」


 ひんやりとした水の冷たさを感じた途端、身体中に強烈な痛みが走る。歯を食いしばった。
 全身の火傷を修復するように、川の水が隅々に行き渡る。

 ああ、ああ。
 あの水の音は……カグツチは自分という火から救うために私を。


 目の中が燃えるように熱く何も見えない。
 擦るように左目を水で濯いだ。


 痛みが引き、右目を濯ぐ。
 痛みが引く。


 涙なのか水なのかわからないもので顔がぐちゃぐちゃになりながら、鼻をすする。
 
 焦げ付いた臭いだけがしていた鼻から、潮の香りがした。



 顔をあげ、ぼやけた視界がはっきりとした矢先だった。



「気高い兄の火の意思を継ぎ、私はこの世界を照らし続けましょう。そして夜には黄泉の国へ下がり、また戻ります」



 直視出来ないほどの光の珠が、空へ昇る。



「では私は、その間も愛の火種が絶えぬよう、変わりに夜を守り続けましょう」
 

 黄泉の国で見た蛍の灯りに似た、優しい光の珠が同じように昇っていく。



「ならば私は、希望が生まれ、悲しみを引き受ける海で、天地を繋ぎましょう」



   力強く、たくましい水のうねりが滝のように昇り、空を水平に走り抜けていく。



 アマテラス
 ツクヨミ
 スサノオ



「頼んだよ……お前たち。お父さんは、もう迷わないから」



 いつか黄泉の国でもう一度会えたときに、またお父さんと呼んでもらえるように。
 イザナミ……大好きだったお前の花のような笑顔が見られるように。


 藍色の空が明るくなっていく。
 あの世とこの世の境目に、二人が立っている気がした。

 両手の火傷の痕だけが、僅かな瞬間、確かに三人共に在れたことの証を語るように残っている。
 


 家族を繋ぐ絆のように--





【忘れ物を取りに行きました】



私を励ますためなのか
真実なのかわかりませんが
三人で抱き合う姿と、理由を見せてもらえました。

Thambaちゃんのおかげでやっとやっと書けました。

この結末はどうかと思われる方もいらっしゃるかもしれないけれど、私が一番救われています。

最後までお読みくださっただけで
心からありがとうございました。