凍てつくような寒い冬の山は、木枯が吹いていました。
木々は実りの時期をとうに過ぎて、野イチゴひとつ見つかりません。そんなとき、穴だらけの汚い服に身を包んだみすぼらしい姿の老人が倒れていました。
息をしているのかどうかわからないほど、今にも命の灯が消えかけているように見えます。
「なんてことだ! 急いで助けなくちゃ」
そこを通りかかったサルは、数少ない食糧を探してかき集めました。
「あともう少し、頑張ってください!」
サルが立ち去ったすぐ後に通りかかったキツネは、冷たい川の中に身を投じ、魚を獲りました。
「おじいさん、大丈夫!?」
ウサギが青ざめて近寄りました。
ふわふわの毛で温めようと、老人の身体を懸命に摩りますが、ウサギの小さな身体では限界があり、冷えた体温は戻りません。
「よし、今すぐ食べ物をとってくるから!」
ならば、滋養になる何かを持ってくるしかないと、サルやキツネと同じ考えに至り、その場を後にしました。
ですが、知恵のあるサルや、身のこなしが速いキツネと違い、ウサギは木の実を見つけることも、魚を獲ることも出来ません。
大きなクマに出くわせば逃げられず、オオカミの巣穴がたくさんあるこの山で食べ物を得ることはウサギには困難なことなのです。
そうしているうちに、サルやキツネが老人に助けを与えられたことを知りました。
「僕はなんて役立たずなんだろう……」
危険なところならば他の動物たちも近寄らないと考え、よじ登った崖から落ちかけて傷だらけになり、茨のなかへ手を伸ばしたことで剥がれた爪。
白い毛は赤く滲み、ふわふわだったウサギの身体は見る影もなくなっています。
それでも、果実ひとつ手に出来なかったことを情けなく思い、ウサギは涙をこぼしました。
ならばもう、自分に出来ることはこれしかない。
「サルくん、キツネくん、お願いがあるんだ」
ウサギは、二匹に頼んで火をおこしてもらいました。
水も食べ物も用意できないウサギが、老人を温めてあげられるたったひとつの方法です。
「何をするんだい? ウサギくん」
頭の良いサルが、何かを感じてウサギに問いかけます。でも、ウサギは、これでようやく役に立つことが出来ると、嬉しささえ湧き上がっていました。
「少しでも火が続くように……最後には、おじいさんに」
ウサギは、勢いよく走り、目をギュッとつぶって火のなかへ入りました。
「駄目だウサギくん……っ!!」
ハッとして咄嗟に止めようとしたキツネの声は届かず、くべられた木々のなかにウサギの身体が--
「良かった……間に合った」
しわがれた声に、サルもキツネも、おそるおそる閉じていた視界を開きました。
「熱かっただろう……? 痛かっただろう?」
老人の腕のなかに、ウサギが抱えられています。
ウサギは気を失っていましたが、毛が少し煤けただけで、むしろこの老人の手が火傷を負っていました。
「おじい、さん……? どうして」
ウサギが静かに目を開けました。覚悟をしていたはずの自分が生きていることに驚きを隠せません。
「私は、ずっと悔やんでいた。お前が、私を助けようと火のなかへ飛び込んでしまうのを止められなかったことを。私はお前の命を犠牲にして助かることなど望んでいない。だから、時を戻したのだ」
老人だったはずの姿が、勇ましい帝釈天の姿に変わっていきました。
神さまであろうと、時間を戻して過去を変えることは禁忌。どのような理由があってもしてはならないことであり、意図した時間に行くことは難しいはずです。
それでも、何度も何度も帝釈天は時を駆けて繰り返し、2986回目の今、手遅れにならずにウサギを火のなかから出すことにやっと成功したのでした。
「時を……そんなことが」
「かつて、お前たちはそれぞれに心を砕いて私を救おうと尽くしてくれたな」
サルが事の重大さに愕然としているなかで、帝釈天は三匹を見つめます。
「私は試した。愛とは何かを問うために。そしてお前たちは答えを示してくれた。お前は、知恵を絞り工夫することで誰かを助けることが出来ると」
帝釈天は、サルの頭をそっと撫でます。
「お前は、勇敢に行動を起こすことで誰かを助けることが出来ると教えてくれた」
続いて、キツネの背中を撫でました。
「お前は、命をかけて与えようとした。その慈悲に胸打たれ、私は月にウサギの魂を送ったが、どうしても受け入れられなかったんだよ」
最後に、胸に抱いているウサギの頬にそっと手を当てました。
「どうにかして救おうと努力することは、気高い行いだ。分け与えられるものがあるならば、それは独り占めなどすべきではない。だが、互いに生きていてこそ心から喜べるんだ。お前の優しさは本当に嬉しかったよ。でも、どちらか一方が犠牲になっては、愛は悲しみを生む。わかってくれるか?」
噛んで含めるように、ウサギに静かに話す帝釈天の手が赤く腫れています。
帝釈天の瞳から涙が音もなく流れていました。
ウサギは、自分を軽んじていたことに気がついて、赤い手の火傷を舐めました。ただただ、痛まないように願いながらそっと舐めました。
「僕なんて……食べられたほうが、いいと、思って……なんの、役にも立たない、から」
普段から、強い獣の糧になるような、ちっぽけな存在だから。どんなことも劣っているから。
「何を言う。お前には、この耳があるじゃないか。お前が一番に、私の声を聞きつけて来てくれた。助けを呼びに走ってくれただろう?」
「そうだよ! オレ、ウサギくんが叫ぶのを聞いて、おじいさんを見つけたんだ」
「僕もだよ!」
キツネとサルが口々に頷きます。
そうなのです。倒れた老人のかすかな息遣いを拾い、真っ先に駆けつけたのは、実はウサギだったのでした。
「お前にしか出来ないことがある。我が身を犠牲にするよりも、ずっと素晴らしいことだ。お前の耳は、助けを必要とする多くの声を聞けるんだよ。それを伝えてくれれば良い。その輪が広がって、みんなが共に手を差し出せるのだから」
考えてもみないことでした。この長い耳は、無用の長物でしかないと思っていたのです。
忍び寄る足音、強い風音、荒い息遣い……そんな恐ろしい音ばかり拾い上げて、逃げるためにしか使われていなかったのですから。こんなふうに一大事を知りえても、ただそれだけ。何にも活かせないと絶望していたのですから……
「お前は、私のここを救ってくれたよ」
帝釈天は、自らの心臓に手を当て、ウサギの手を握りました。
「はい……!」
ウサギは嬉しさに首を何度も縦に振ります。
帝釈天が何を自分に理解させたいのか、やっとわかったのです。
「ありがとう、本当にありがとう。三千年前にお前たちに教えられたことを、今ようやく心から感謝出来る」
焚き火の火が消えて、煙が天に向かって昇っていきます。夜空にぼんやりと浮かぶ月に、煙が繋がっているようです。
帝釈天がウサギの身体をひと撫ですると、ウサギの傷もまた治り、ふんわりとした毛並みが甦っていました。
「知恵と、勇気と、愛に傾ける耳さえあれば、きっとどんな困難も超えて行けるよ」
三匹のいた山に、柔らかく暖かい風が吹き抜け、帝釈天は煙を辿るように消えて行きます。
キツネとサルとウサギは、まるで夢を見ているかのようにその光景を眺めていましたが、そっと微笑みあって、しばらく夜空を見上げ続けていました。
めでたし、めでたし。
【神さまの後悔】
月にうさぎがいるのは何故?という
エピソードのひとつに、
倒れた老人に何もできない自分の身を捧げて
火に飛びこんだ慈悲深い行いを
老人に扮していた帝釈天という神さまが後世に伝えようと
月にうさぎを昇らせた、というような
お話があります。
私が神さまならば、火に手を入れてでも死なせない
そんなふうに、
人間ならではのエゴが働き
うさぎの意思や愛を尊重出来ず
ずっと書きたかったこんな展開でした。
本当の神さまは、どう感じられるのかな…
解釈が分かれると思いますが
ようやく書けて満足しました(笑)
お読みいただき本当にありがとうございました!