もうひとつの幸福のゆくえ【下】 | ✧︎*。いよいよ快い佳い✧︎*。

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主人公から見ても、悪人から見ても、脇役から見ても全方位よい回文世界を目指すお話

もうひとつの幸福のゆくえ【上】






「目が、覚めたかな」



 荘厳な空気の中で、ゆっくりと話しかけられて目を開けた。



「私は……? っ、眩しい!」



 瞳が完全に開かれると、あまりの光の強さにもう一度目を閉じてしまった。真っ暗な夜、見慣れた街の中にいたはずなのに、ここは一体どこなのだろうか。



「あなたは……?」

「おや。忘れてしまったのか」



 笑い声と共に、ふわりと、暖かい風に包み込まれた。目が少しずつ慣れてきて、声のする方を見つめることができたが、姿が特定できない。



「では再度名乗るならば、私は、君たち世界の源。命の種と称するのが一番近いだろうか」

「源……?」



 姿かたちはなく、ただそこには、大きな光があるだけだった。



「どうだった? 君の願いを叶えてあげたが、満足することはできただろうか?」

「願い……? 叶える……? 願い……!」



 靄のかかったような記憶の中から、ひとつの糸が手繰り寄せられるように戻ってきた。



「私は、王子で。流行病にかかり……気づいたらこの場所にいて」

「そうだ。そして、天使に連れられてここへ、やって来た」



 ここへ来るのは二度目なのだということを、今度ははっきりと思い出すことができた。

 そして、両目の宝石を手放し、本来見えていないはずの自分の目が見えていることにはっとした。



「私は、この世界でもっとも美しいものをここへ持ってくるようにと、天使たちに伝えたのだ。そうして、天使たちが見つけてきた美しい魂は、君だった」

「いえ、違います! 違うのです」



 思わず叫んだ。

   この光は、偉大な何か……“神”のような存在なのだと、同時に感じていた。


  顔色を変え、必死で首を振り、訴えた。美しい魂は、自分などではない。そう、美しいと言うのなら、自分の頼みを聞き入れ、命を賭けて人々を救ってくれたあの――



「そうだ……ツバメくん! ツバメくんは、ここへ来ているのですか!」

「ああ。来ているとも」



 安心しなさい、とその大いなる光は――言った。



「でも、どこにも」

「一度目にここへやって来たときも君は、そうして同じように違うと言ったね」



 辺りを見回してツバメを探そうとする王子に、その偉大な光は構わず話し続けた。



「待って下さい!」

「だから私は、何故かと聞いた。すると君は」

「私は……美しくなんてない。城の中でひとり、豊かに幸せに暮らしていたのです。飢えに苦しむ人々のことも知らず、犯罪に手を染める人々を助けることもできず」



 視界が涙で滲んだ。肉体がないというのに、泣くこともできるのだなと王子は心の片隅で思った。



「そう。そう言って、天に戻ることを拒んだのだったね」



 そこで、提案されたことをかすかに思い出した。



「では、心残りになっていることを消化してくるが良いと。そして、自分を汚いと言い続けるのだから、本当にそうであるのかどうか、私が証明するため、君の中から良心を抜いて、解き放った」




 ――“ツバメ”の姿にして――。



「ツバメ……?」

「そうだ。君の良心は、黄金の像として街の中に創り出し、ツバメは良心というものを抜いた君の残りの自由な部分として」



 驚いて、王子は目を見開いた。



「良心そのものなのだから、像となった君が深く人々に同情を寄せても、何も不思議ではないだろう。だが、ツバメはどうだったかね?」

「もしかして、私が出会ったあの子……が? 痛っ」



 そう口にした途端に、ずきりと頭が痛んだ。

 



 ――空を飛べるって気持ちがいいなあ……どこまでも、好きな所へ行けるんだ!――

 


 夜空に瞬く星の一番近いところまで昇り、暖かな寝床を探して眠り、大好きな木の実を食べた。

  



 ――僕は僕だけの人生を楽しむぞ!――

 



 阻むものはなく、高い壁を越えて、広い広い海を渡って。

 

 ないはずの、他の誰かの記憶がじわりと浮き彫りになる感覚がした。



「私が……あの、ツバメ……?」

「――良心を抜き取ったはずの君は、何故、君の頼みを聞いたのだろうか?」

「それは、私が無理やりに頼んだからで!」

「本当にそうかな?」

「そうです!」

  


 偉大なもの相手だというのに、食らいつくように語気を強めた。

  寒空の下、ひとり靴を磨いて働く少女に身体の金をはがして与え。売れない絵を描き続け夢を追っていた青年に、眼の中のサファイアすらも与えた。


 自分は、自己満足を感じることができたが、胸を痛めて願いを聞き入れ、自分の身体からあらゆるものを抜き取り、金を剥ぐことをさせたツバメにはなんと酷いことをさせてしまったのだろうかと、悔恨の念さえ溢れてくる。

 しまいには、エジプトに行く機会さえ奪い、死なせてしまったのだ。


 それのどこが、美しい魂であるというのか。



「ツバメは、君が望んでいないところまで、助けようと懸命だった。それは、自分の意思で、だ。思い出してごらん」

「私が、望んでいないところまで……?」



 王子の持つ宝石を使ってではなく、自分の力で行ったことだという。



「……あ……」

「一晩、戻ってこなかったことがあっただろう」



 ふっと、思い当たることがあると気づいた。偉大な光が、ふっと笑みをこぼしたような気がした。



「大富豪の家であったから、生活に困ることは決してなかった。だが、最も大切なものを欲し続け、震える心を止める術を知らぬ女性の傍に寄り添って眠った……それだけのことだったが、大きな救いをもたらした。彼女は、命を断とうとしていたのだ」



 その日に旅立てばまだギリギリに間に合う、そんな夜だった。孤独という闇の中で光を失い、希望を感じられない冷え切った家の中から抜け出したくて、嗚咽をもらしていた女性に出会った。

 それは、王子に頼まれた宝石を届けた帰り道でのこと。

 


 ――ありがとう。ありがとう……ツバメさん――

 

 宝石を運ぶようになってから数日、一体どれだけの「ありがとう」という言葉をかけられただろうか。

 必要なものが必要以上に揃った立派な部屋にいた彼女は、ほかのどの人間よりも暗く、冷たく透き通った瞳をしていて驚いた。

 頬に擦り寄ると、そっと両手に抱えられ、涙を流していた。寄り添えば、別人のような表情になり、心底安堵して彼女は笑った後、淋しかった、と一言呟いていた。

 貧しさのなかだけに不幸があるわけではない、ツバメであったときの自分は、そんな気がして身を任せていた。



「愛とは、なんと尊いものだろうね。彼女は命を断とうとしていたが、手を伸ばしてもいた。諦めようとしながらも、諦めたくないと望んだ。私に届いたその祈りは、ツバメを動かしたのだ」



 偉大な光が静かに語ると、また、王子の髪がふわりふわりと浮いた。

 まるで、頭を撫でられているかのようだった。



「望んでくれなければ、私も、天使も何も手出しはできない。それこそが、人々の価値であり、意義でもあるからだ。何もかも良かれと助ければ、無限の可能性も、どんなことも叶えられる未来も、花開く力を失ってしまう」



 どうして、神はこんなにも無慈悲なのだろうと思ってしまったことを悟られたようだった。自分の無力さを嘆きながら、これほどまでに過酷な状況に置かれている人々を前にして、何も手助けがないというのなら、この世界など消えてしまえと、恨んだことも否めない。 


「そうだったのですか……」

「私は、この一件に携わっていない天使たちにもう一度、この世界でもっとも美しいものを持ってくるよう伝えた。君が二つに分かれて地上に戻ったことは、打ち明けずに。そうすれば、公平だろう?」



 光の中から、すうっと出てきたのは、小さな小さな身体。天使たちが大切に、その手に抱えている。



「ツバメ……くん……」

「何も知らない天使たちが運んできたのは、このツバメと、そして、割れた君のハートだった。像の君だけではなく、二人だったのだよ」

 



 ――違いますよ、王子さまのせいじゃない。僕は、本当に幸せだったんだ――

 



 命の灯火が消える寸前のあの、ツバメの想いが、重なって響いた。

 確かにツバメは思っていたのだ。これまで生きてきた中で、今が最高のときだと。



「聖夜、君たち二人から……いや、君から。かけがえのない贈り物が与えられた。奇跡は、常にこの雪のように降り注ぎ、祝福は約束されている。だが、それを知らずに多くが、未だ闇の中にいるのだ」



  二人の命が途切れたのは、奇しくもクリスマスイブの夜。



「私は、とても嬉しかった。ありがとう」



 天使の手から離れたツバメの身体が、王子の胸の位置に吸い込まれていった。



「偽りの善など、ひとつとして存在しない。だが、君は我が身を汚いと罵り、挙句、自分がこの世でもっとも美しい宝石であることを認めようとしないね。私の中から生まれた君が、天使たちが愛してやまない君が、悪であるわけがないだろう」

「神さま……っ」



 わあわあと、王子は泣いた。幼い子どもに戻ったかのように、王家の品などどこかへ捨てて、形振り構わずに声をあげた。

 ひとり、またひとりと倒れていく姿を見て、孤独に震える訴えを目の当たりにして、それでもぐっと堪えて待つことの辛さを、王子は身を以て知った。

 人々が何を思い、暮らしているのか。更にはこうして自分が恨んでいることも気づいていながら、ただただ信じて受け止めていたこの偉大な光が、天使の慈悲がどんなに深いものであるのか。

 胸がいっぱいで、話すことなど、できなかった。


 

「君は、像でありながら願った。苦しむ者たちの幸せを。そのためにどうにかしたいのだと願った。そして、君は彼らが“かわいそうな存在”ではないことにさえ気づいたね。導かれるようにしてもうひとりの君が、ツバメが引き寄せられた。良心を抜かれたはずのツバメは、自らの意思で人々のため、それは知らずして己の喜びのために君に手を貸した」



 これがどういうことなのか、もうわかるね? と、偉大な光は王子に問いかけた。

 王子は、涙をぬぐうこともせずに光を見つめた。



「良心を抜いたところで、何も変わりはしないのだよ。最初から、君たち人間の中には、愛しか存在していないのだからね。君の魂を分けたことに意味はないのだ。この体験をしたことには、もちろん大きな意味はあるが」



 何者にも汚すことのできない気高きものは、この世界すべての人々そのものである愛だと、偉大な光は言った。本当ならば、世界中の魂を天使たちが運んで来なければならないところだったという。

 けれど、恵まれた日々の中を過ごし、決して傲慢になることも、奢ることもなかった王子が、天使たちの手を振り払ってまで、天に還ることを拒んだ。

 そして真実を伝えようと起きた全てが、天の計らいだった。



「富を持ち、豊かであることを恥じることはない。それもまた、素晴らしい経験なのだ」

「はい……」



 偉大な光の言葉の意味を、王子はようやく捉えることができた。 

街の人々を見渡しながら、見えたことがある。

食べ物もなく、暖炉もなく、飢えた苦しみは貧しい生活の中にあった。けれど、夢を持ち、かすかな希望を離さず、互いを想い合う優しさを持つ人々は、決して不幸などではないのだと。

そしてまた、物質的に満たされることで得られる喜びに限りがあることも知った。



「もう、自分を信じてくれますね。私たちは、ずっと見ていましたよ。片時も離れずに、いつも」



 そっと抱きしめられて振り返ると、天使が涙を流して微笑んでいた。



「あなたがお生まれになったその日から、いいえ、生を受けるその前から見守っていました。私の仲間が、あなたを神の元へ連れて行く宝だと選んだとき、とても誇らしかった」

「ああ……ありがとう、ありがとう、ございます……」



 王子は、胸を押さえて膝をついた。ぽかぽかと温まるこの優しい心地は、きっと、もうひとつの魂の片割れであったツバメが与えてくれているものだろうと思った。



「でも神さま、どうして私をツバメの姿にしたのですか?」



 太陽のごとく眩い光の向こうで、大きな扉が開いた。さあ、今度こそ前に進みなさい、と言われているようで、そしてその通り今度こそ迷いなく、王子はその足を動かした。



「城の向こうを自由に駆け回りたいという願いを叶えた。それだけのことだよ」



 満たされた心の奥で、大いなる光――偉大な何かが、答えてくれたのがわかった。


  王子の身体から、みるみる金色の輝きが放たれてゆく。

  塗りたてられたメッキではなく、これは王子の中から溢れ出す本当の美しさ。

 抱きしめているものは、ツバメであったときに感じた、あの満ちたりた気持ち。

 喜んで報告してくれたツバメの話を聞いた、像であったときの気持ち。

 人々が褒めたたえる黄金の自分じゃなくなっていっても、あんなにも輝かしい晴れ晴れとした心を感じていられたのは、人々が見せる笑顔、弾むような声。差し出していたものは人々にではなく、自分へと帰ってきていていた、幸せがあったから。

 

 そんな宝物を抱きしめて、王子は光のなかへ溶けていった。 

 








「――王子っ、王子!」



 鉛のように瞼が重くて、呼びかけに応えたくとも、身体が動かない。

 もう少し寝かせて欲しい、そう口にしようとしたところで、これがありえない事態であることに、がばりと飛び起きた。


「ここは……?」


 辺りを見回すと、慣れ親しんだいくつかの顔が、これまで見たこともないような必死の形相で自分を睨んでいた。睨んでいる、というのは間違っているかもしれない。



「どれほど心配したか……よく、帰って来てくれました」



   睨んでいると感じるほど、強張った表情で、緊迫した空気のなかで、身を案じてくれていたのだ。



「母上……」



 泣きながら抱きしめるその腕は震え、手を回すと、柔らかかった母の身体は痩せていた。



「あなたが、倒れて運ばれて来た時はどうなってしまうかと!」



 意識が戻った王子の様子にほっとした母の顔にも血色が戻った。

 我に帰ったところで改めて叱ろう、そんな母を諌めるように、痩せた肩に、大きな手が乗せられた。



「父上……私は」



  恐ろしい伝染病がはびこっていることも知らず、ひとり城を抜け出した。目の前にいる父が、いつもそうしていたように。そして何故、王である父が自ら出向くのかを知りたくて。


 身分を隠し施しをして回る父の後を追い始め一週間と経たず、病は王子の身体に入り込んだ。あの、まるで臨死体験のような時間のなかで、命を落としたとばかり思っていたのだ。



「勝手に城下へ行ったことは咎めない。大切なものを、見つけてきたのだろう?」



 父の表情は、とても優しいものだったが、その顔には見覚えのない皺が刻まれていた。



「だが、こうして皆を心配させたのだ。言うべきことがあるだろう」



  父や母の言葉からは、自分はまだ生きているのだ、ということがわかった。

自分は、夢を見ているのだろうか。それとも、これまでの出来事が夢であったのだろうか。



「私は、流行り病で」



 死んでしまったのでは? と問おうとしたが、そこで止まった。


 執事やメイド、果ては庭師に至るまで自分のベッドの周りを取り囲み、母や皆と同じく泣きはらした真っ赤な目でこちらを見ていた。 



「みんな……みんな、ありがとう」



 謝るより先に、これほどまでに想ってくれていたことに、ただただ感謝の念が出た。一斉に、歓声が上がる。それは鼻をすする音や泣き声が混じり合った、暖かい空気で満ちていた。



「王子、あなたの快復を待って、街中に黄金の像を建てようという案があるのです」



  爺やと幼い頃から呼んでいた執事が、きちっと整えられた白いハンカチで目元を拭いながら言った。彼にもまた、多大なる心労をかけてしまったのだろうことが窺えた。



「黄金の像?」



  あれは、亡くなった後に建てられるはずだった像。歴史は、少し変わっているのだろうか。

だとするならば、やらなくてはならないことがある。



「黄金の像など、必要ないんだ。その像に使う多くの宝石と金(きん)で、作りたいものが」

「必要ないなどと、そのような」



 名誉であるはずのそれを固辞する王子に、周囲が驚きの声を上げる。



「誰もが等しく治療を受けられる病院と、学校を。そして像を建てる代わりに、肖像を描いてもらいましょう。家族みんなの絵を」  



 ざわめきが立つなか、それはいい、と父が大きな声で賛同した。



「そうね……私も賛成です。素晴らしいわ」



 母である王妃も、王子の手を握って了承した。



「では、さっそく手配をいたしましょう!」

「爺や。その時に、頼みがあるんだ」



  何かを察してくれた賢い執事が、静かに頷いた。そして、王子の真剣な眼差しと伝えられた提案は、その場にいた人間の心をひとつにしたのだった。

 

 

 


  ――それから一年後、城の壁いっぱいに描かれたひとつの絵が完成した。


   無名であったひとりの絵描きの男は、たちまちその名を馳せるようになる。



「素敵な、絵ですね」



 今や、王家の者へ近づくことを躊躇うものはほとんどいない。自分から話しかけることなど到底できないと思われていた彼らの心を近づけようと、努力した。距離を、差別をなくそうと、王のみならず一家総出で何度も出向いては、民衆の心に耳を傾け続けた。その結果、こうして声をかけられることは珍しくないのだ。



「そうだね。気に入ってくれて嬉しい……よ」



 城の壁から、声のする方向へ顔を向けて止まった。



「君は……」



 面識のない少女が立っていた。




「元気になったんだね! 良かった……あれ? 元気に……?」



  ――あの時とは見違えるほど美しくなった、女の子、ではなく女性である彼女に、自然と、王子は語りかけていた。



「あなたに、助けていただいたおかげです。王子さま」



 元気になって良かった、そんな返事に驚く様子も見せず彼女は、微笑んでそっと頭を下げた。


 

「あなたと、小さな天使さんに」



 忘れもしない、あの高台から臨んだ景色。そして、最期に届けられたお礼の言葉。


 あれは、生死を彷徨っていた自分が見た夢ではなかったのか。


 奇跡は、終わっていなかったのか。


 あの、偉大なる何かが、この奇跡を起こしてくれたのだろうか。


 そっと、また壁の絵に目線を向ける。

 そこには王子の望みどおり“家族みんな”の姿が描かれている。その絵のなかでは王と王妃、そして王子。城に仕える者たち、城下に住む人々すべてが笑っていた。


 そして王子の肩には、小さな、小さな一匹のツバメ。



 「ありがとう」



 胸の上に手をやり、愛しい彼(か)の存在を想う。

 喜びの象徴とされ、幸福な王子と呼ばれた彼は今もこれからも、永遠の幸せのなかにいる。




【もうひとつの幸福のゆくえ】

 

 

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いつもの倍はあるお話を、

読んでくださったあなたに
最大のありがとうを