幼い頃、かなり荒れた家で育ったので、毎日が脅威でした。養育者の機嫌でその日の平和が決まり、顔色を伺いながら生きる日々。



本質的に安心になれないので、

おそらく自分の身を守るために病気にもなりました。

その持病は長いこと自分を苦しめましたが、

彼らから自分を守るにはそれしかなかったのかもしれません。



病気なら、攻撃されないというのを知っていたのでしょう。



だから、世界はいつも怖い場所に見えてました。

人間は意地悪な人間が多くて、いつも警戒してないといけないと。



そのダメージを回復させるべく、

いろいろやって来ました。

かなり回復して来ましたが、やはり古傷が強過ぎて、痛むことも結構あります。特に人間関係。



安心してたいから、世界をコントロールしたくなる。不快なものは、全て取り去りたい。と。



安心したい欲求は強力です。



世界から不快なこと、存在がなくなれば良い

と、全てをコントロールしたくなります。



でも、無理ですよね。笑



最近もその古傷が疼き出すことがあって。

完全なる安心みたいなものに焦がれましたが、

改めて自己受容をしていく中で、



本質的な安心について考える様になりました。



それは、不快な出来事が起きても良い


いう姿勢です。



いいことも、いやなことも、

上手く行ってることも、上手くいかないことも、

ひっくるめて引き受けるよ。



という姿勢です。



嫌なことが起きても良いし、

嬉しいことはもちろん大歓迎。



嫌な出来事、

それに伴う不快な感情。

それもひっくるめて受け入れますよ、と。



もともとこのことの大切さには気づいてました。



そう簡単に実践出来るものではありません。

でも、一つの気づきが芽生えたのはちょっとした希望です。



そうか、おれはまだまだ受け入れられたがっているんたな。



と、感じたのです。



ホ・オポノポノをやる一歩手前で必ず、

自己受容する。嫌だったねーと。

シンプルな自己受容の基礎です。



他のあらゆる負の感情に対しても、

そうか、そう感じるのねー

と、一つ一つ受容していく。


本当の安心ってここにしかない様に思ってます。



外的世界がどんなことが起こってようと、

自分自身が本当の意味で味方でいられれば、

それは、本質的には安心が存在します。




世界をコントロールするという方法ではなく、

不快なものを殲滅するのではなく、

起きて来たことをとにかく受容する姿勢。



この姿勢が本質的な安心を生むと感じてます。



とはいえわ実践はすぐには出来ない。

ヒヨコみたいな歩みでも、

一つ一つ受容していけたなら。