全部自分の責任とは、ホ・オポノポノの話。


全部自分の責任というのは、

あれもコレもワイのせいぢゃー!

と、自分を責めるということではありません。


自分の身の回りに起きることは、

自分の責任だ!

と、なると自分に決定権が戻って来ます。



ホ・オポノポノでは、

あらゆる出来事は、自分のため込んできた記憶の再生ととらえます。自分が生まれてからの記憶ではなく、宇宙が誕生したあたりからの、壮大な話です。



そんな膨大な記憶をそれぞれが抱えているので、

目の前の出来事は何が原因で起きてるのかはわからない。でも、自分の記憶のせいさ!と、いうこと。



自分の責任というより、記憶の責任。

でも、その記憶は何が原因かわからない。


僕らの人生にはいろんなことが起きます



ちょっとしたケンカとか

感じ悪い店員

思い通りにならないこと

ガッカリした出来事

ウマが合わない同僚

根深い孤独感

愛されない感覚



などなど、その場で出くわすことから、

長期間持ち続けてる感覚まで。

いろんなことが、そこに在るわけです。



でも、それらが全て自分の記憶が引き起こしていることだとしたら?



自分でクリーニング出来るってことになります。



ムカつく出来事や人も、

自分の記憶が引き起こしてるなら、

そこをクリーニングすれば良い。


と、かなり気楽になりませんか?



実際ホ・オポノポノやったからって、

即効で相手が変わるとか、感情が収まる

なんてことは、期待できません。



段々とじわ〜っと変わっていきます。



長期間変わらないものももちろんあります。

僕の中にもまだまだ変化しないなー

ってことが沢山あります。



でも、これまでの経験上はじわ〜と変わっていきます。


クリーニングすることで、

執着が取れていったりして、

思ってもみない形で与えられたり。



でも、それは必要だったものだから、

与えられたので、不要なものだと、

単に執着がとれて楽になるだけかもしれません。



いずれにせよクリーニングすることで、

少しずつ少しずつ軽くなっていきます。

自分の責任なんだから、一つ一つ。



初めは、この「全部自分の責任」っていうのが、

嫌でした。記憶にもない膨大な歴史の分まで

なんで、クリーニングしなきゃいけないのか。


と、思ったもんです。



でも、どうせ記憶は存在していて、

それが、影響を与えることが変わらないなら、

クリーニングした方が良いよな。



と思う様になりました。



だから、何がそうさせているのか分からないけど、

クリーニングした方が楽になるならしちゃう。

というだけですね。



これは、記憶が再生しているのか、、と。



自分の責任という捉え方ですが、ある種人ごとの様に「記憶の仕業」を見ている感覚ですね。



これはある種自由です。



1番不自由なのって、

自分の目の前の世界を

徹底的にコントロールしたいって感覚で。



コントロールもクソも、

記憶の再生なのだから、

クリーニングしてけばいいっしょ

っていうシンプルなスタイル。



結果が自分の思い通りになろうとも、

ならなくとも、どっちがベストなのかすら

わからないわけです。



自分の責任なのに

まるで人ごとの様に

自分に起きる感情や出来事を眺めて、

クリーニングをしていく。



そして、クリーニングされた先には、

自分の想定ではない根本の記憶と消えてるわ、

自然な流れに運ばれるわ。



コントロールはできません。

でも、これは自由なんだと僕は感じてます。

人ごとの様に自分の世界を見て、

クリーニングして流れに任せる。



このスタンスは僕は楽ですね。

人のせいにすると、どうにもアプローチ出来なくなるからね。



自分せいならクリーニングするかーって気楽さ。