ぎゅーっと抑えつけて来た感覚。


こう在らないといけない。


そこから外れると死ぬんじゃないか!?
っていう恐怖。


これにがんじがらめでした。


〇〇で在らないといけない

の〇〇には、

真面目
勤勉
しっかり
大人
理性的

とか、いろんな言葉が入ります。
うん、どれもおれに合わねんだよなーって感覚。


この数ヶ月、よりソースと密接になって見えて来たのは、いかに自分が自分のことを押さえつけているのかということ。


ルールでがんじがらめになったのは、
育つ過程の偏った教育や、虐待まがいのことや、いじめやら、人間の負の部分を見たが故であることは、
わかっている。


先天的な性格と、後天的な学習。


これで人の個性は出来上がっている。


先天的な性格はあんまり変えられなくても、
後天的な負の性格は変えられる。
ただの学習された負の思考パターンだから。


で、先ほどの抑えつけてしまう思考も、
結局は学習で、きっと目立ったら、
嫉妬されて攻撃されたとか、そんなところだろう。


目立つ
上手くいく
幸せである


願いながら遠ざける理由は、嫉妬されるからなんじゃないか?と、思う。


嫉妬されて、陰口叩かれてもいい!


となれば、そんなに遠慮してる場合じゃないし、
とっとと幸せになっちまいましょうよ。


ということになるのだ。


真面目
勤勉
しっかり
大人
理性的


で在らないといけないっていうのも、
嫉妬したり偏った考え方を持つ人に
攻撃されないためのパフォーマンスでしかない。


人間だから、攻撃されたくない。


でも、そうやって攻撃されない様に生きてたら、
イッコも楽しくなかった!
っていう人生はおそらくだけど、後悔しかない。



僕も抑えつけて来たことは、沢山ある。
とても苦しかった。

だけら、だんだんと遠慮を捨てて来た。


まだまだ抑えつけている。


うん。そろそろ解放してあげようではないか。



攻撃されても、「気持ち」を優先させてやる。、


嫉妬するのも、されるのも許す。



そうやって嫌で嫌で仕方なかった部分を許せたら、
感覚が変わるんじゃないかな?


攻撃されてもいい。


中々勇気がいる、許しだ。


でも、これが許せると同時に自分に力も戻ってくる。


そしたら、一つ一つ「本当はこうしたかったこと」をやっていけばいいのだ。

「本当は」

ってところが、大切。


抑えつけている大義名分に押しつぶされてしてるから。


そこらへんの本音をひとつひとつ、拾っていく。


そして、攻撃されてもいいから、
ひとつひとつ行っていく。


そしたら、自分にとって「何が大切か」が見えてくる。


嫉妬されて攻撃されそうな人を見極める。
もうその人とは関わらないでいい。
極力関わらない。


そう決めたら、楽になる。


なぜなら、自分が幸せでもそれを喜んでくれる人もいるからだ。


嫉妬にまみれた世界にいる必要もない。


自分の意志を持ってつかんでいく必要がある。
とはいえ、肩肘貼らずに気楽に拾っていけばいい。
これは、好き。これは、嫌い。


他人へのアピールはもういらない。


自分の本心との接続。