先月から、現実創造したいあまりに、
意識にフォーカスして生活をしている。
そしたら、反対になんとか現実創造を!
という感覚がガクンと減ってきた。


その要因というは、
自然な流れで、現実創造よりも、
まずは「安心」を板につける方が大切である。
ということがわかって来たからだと思う。


現実が、過去収録のVTRであるとすると、
このその放送されている時の「視聴者」としての
意識が、また未来の現実の収録に繋がっている。


そう考えると、
たった今の「視聴者」としての在り方を変えずして、
現実をいくらこねくり回しても意味がない。
ということになる。


僕らが色々なものを得て武装したくなる理由を
たどっていくと、「不安」や、「恐怖」から
逃れようとしているということが見えてくる。


「不安」や、「恐怖」を解消したくて、
外側のものを得たり、他人の評価という、
データーを集めようとしてしまう。


でも、「不安」や「恐怖」は、
心の中に存在しているものだから、
たとえ、あらゆる外側の条件を揃えても、
不安なら不安だし、怖ければ、怖いのだ。


どんな環境にいても、「安心感」を
持っている人は幸せを感じやすいし、
どれだけ恵まれていても、「不安」や「恐怖」に
心を牛耳られているれば、ずっと苦しい。


客観的条件を揃えることを否定するわけでもなく、
それ以前の「安心感」というものにフォーカスする
回数が圧倒的に少ないということに気づいたのだ。


この文章を読んでくれている人は、
例えば先週、「安心」について考えたことは、
あっただろうか。あんまりないのではないだろうか。


「幸せ」については、多少は考えることがあっても、
「安心」について考えることは、案外少ない。
幸せの回数も少ない人は多いけど。。


子供の頃から欲しかったのは、
心から「安らぐ」ことだったのではないか。


そんな風に思う。


では、どうやって安心していくのか。


それには、「信頼」と、「許し」の
2点セットが必要だと思っている。


まず、信頼。
これは、もう反復的に経験を重ねるしかないのだけど、これまでも「大丈夫だった」ということに
フォーカスすること。


俳優の柄本佑が、テレビ番組で
「自分の子供が危なかしくて心配。そう考えると、周りの大人はみんなよく生きて来たなって思うんです」

とちうようなことを言っていた。と、思う。


確かに。子供って走り回るし、すぐどこかに飛び出すし。それなのにここまで生きてきた。


これ、すごい確率なのでは!?


と考えると、何かに守られて来たとも言えるわけで。
僕の場合は、ソースに意識を向けてるから、
やっぱりソースとか知る前から、守られていたのかな?と、思うわけだ。


「大丈夫だったリスト」を書いてみると面白い。
これまでなんだかんだ大丈夫だったことを、
具体的に文字に起こしてみる。
そしたら、
あれ、自分って結構守られてるやん!

ということに気付けるんじゃないかなと思う。


いずれにせよ、ソースと沢山交流して、
信頼関係を構築していくことで、
「安心感」は、間違いなく高まっていくと思う。


そうか、ソースは全肯定してくれてたのか!と。


全肯定とつながるのが、2つ目の許し。


頭の中で反芻したり、考えていることを、
セルフトークと言ったりするのだけど、
これを文字起こしをすると、えげつないことに
なっている人は沢山いると思う。


おそらくこれは、虐待やDVの記録?ってなると思う。


何かをミスったり、
情けなかったり、恥ずかしかったり、
人と比べられたり、勝手に比べたり、
他人の評価が気になったり、



ことあるごとに、自罰的な言葉が出てくる。

「どーして自分はこうなんだ!」

と、いまはマイルドに書いてるけど、
もっとひどい罵詈雑言を自分に吐いて来ている人、
自覚してない人も多い。



残念ながら、日本の教育は、
自分を責めたり、謙虚を装ったりすることで、
成り立っているから、強力なパーソナリティを
持っていて、跳ね返せる人でもない限り、
頭にガッチリ刷り込まれている。


多くの親や教師が、「良かれ」と思って、
教育したこの自罰的な思考を持ちながら、
「安心しました!」とか、あり得ないと思う。


安心するには、どれだけ「許せるか」に
かかっているのだと思う。


責めるタイミングなんていくらでもある。
自分を責めてることを示して、許しをこう的な
システムが根強いのは、芸能人の不祥事などで、
関係ない一般人に謝らなければいけないことが
示している。


だから、責め→許し に変換出来れば、
天国と地獄くらい心の中は変わるのだと思う。


同じ出来事があって、
徹底的に責められていた時間が、
徹底的に許されている時間に変わる。

これを理解するために、
2つのの部屋があると想像してもらいたい。

片方の部屋に入れば同じ出来事について、
徹底的に責めてくるおっさんがいる。

もう片方には、何もかも徹底的に、
許してくれる優しい好好爺がいて、
徹底的に許してくれる。


どっちの部屋に入りたいでしょう。


いや、好好爺の方!


と、よほどのMっ気のある人以外は
思うだろうけど、実際は責め倒すおっさんの部屋を
思考レベルでは選んでしまっている人が多い。


例えば簡単なミスから、
自分の能力とかまで。


どっちの部屋に入りたいだろう。


徹底的に責められる部屋か、
徹底的に許される部屋か。



これを意識的に行なっていく。


あ、これ責めるタイミングだなとか、
責めやすいポイントが必ずある。


どうしても、おっさんの部屋入りがちだなと。


徹底的に許していくと、
自己防衛的に働くのではないか?
と、思う人もいるかもしれないけど、
自分を責め倒して元気ない状況の方が、
余程、他人に厳しくなったり、状況をまともに
見られなくなってしまう。



それよりも、徹底的に全てのことを許し倒せば、
かえって心は安心感を生んで、素直に謝れたり、
自分の能力を卑下もせず、出来ることをする様に
なれたりするものだ。


どんな自分でも許してくれる部屋。
そんな部屋があるとすると、めちゃくちゃ
安心しないだろうか。


この部屋は頭の中に作れるし、
作らないといけないものだと思う。
他人にそれを求めるよりも、自分の頭の中に、
許しの部屋を作ってことあるごとに入る「癖」をつけこと。


信頼と、許しが板についてくると、
安心が自然と生まれてくる。
考えて安心するのではなく、
反復された習慣が、安心を生むのだと思う。



だから、
これまで生きてきた自分を何度も思い出す。
そして、頭の中に許し部屋を徹底的に選ぶ。


これを習慣化するといい。


部屋にいるのは、好好爺でも、女神でも、
自分が安心する人をイメージしてください。


許しがそこにあるんだから、
そこは、もはや安心の部屋と言ってもいいんだと思う。