苦しみの先に何か良いことがある。
苦しんだからこそ、身につくものがある。


確かにそんなこともあるんだろう。

でも、「苦しみに価値がある」説は、あまりに強力で、まるで道徳みたいに日本人の心に根付いている。

ともすれば、この苦しみにも意味がある!

と、考えすぎてずーっと自分が痛めつけられる環境に居続けたりするものだ。

ここで鍛えたことが、いつかどこかで活きるはずだ!

とかもよくある。
でも、心身共に疲弊しきって身につけたことは、
実はそんなには役に立ってはくれない。


個人的に苦しみが一番役に立つときは、「あれよりはマシだな」って思えることくらいで、そんなに人を強くしない。


それより、苦しみはむしろいろんな意味で体に悪いものなのだとすら思う。



苦しみ信仰を捨ててみると、本当は楽しんでもいいんだという世界が広がっている。苦しんでまでして学ぶ必要ないじゃん?と、すら思えてくる。


なぜなら、同じことは楽しみでも、学べることがおおいからだ。


例えば今、とても苦しい状況があるのならなんらかの方法でその苦しみを取り除くを考えた方がいい。
対症療法でも、苦しみが少しでも減る方法を考えるのだ。


そして、少し苦しみが減ったらもう少し苦しみが減る方法を考えて、実行に移していくこと。おそらく、多くの人には革命はあまり良い作用はしない。


着実に少しずつ変化をしていったものの方が、後々、本当の力になっていくものだと思う。


僕は自分を大好きになって、まず思ったのは、
こんなに苦しむ状況に自分を置いてやるのは、
かわいそうだ。まず、そこから離してやろう。


ということだった。


人は案外苦しみに慣れると、その慣れた世界にいたがる傾向がある。でも、本当に心や体が苦しみを通して、シグナルを送ってきているなら、そいつに従った方が良い。


そして、楽しくハッピーに生きても良いのだと、
自分自身に教えてやる必要がある。


苦しみの日々が長いと、苦しんでないと悪いような気持ちになるから不思議だ。それだけ慣れてしまっているということでもあるし、先に挙げた世の中の苦しみ信仰が根深いということもある。



だから、これも一つずつ刷り込んでいくことが大切だ。少しずつ少しずつ小さな喜びやら、楽しみを自分に与えていく。そうすると、感覚的に「楽しんでも良い」が植えこまれていく。


頭ではなく、感覚的に「楽しんでいんだな」が根付いていく。



まずは、苦しみ信仰に気づいて、苦しみを少しずつ減らしていく。そして、ちっちゃな楽しみの体験を自分にさせてやる。


そんな地味なことの繰り返しが、苦しみ信仰を脱退するきっかけになる。



まずは、ちょっとこの苦しみに気づくことから。