僕はとっても弱い人です。
その弱さたるや、笑えるくらい弱いです。
その弱さが嫌で嫌で仕方ありませんでした。
なんで強くなれないんだろう?
と、すごく長い間、嘆いてきたし、責めてもきました。
で、いろんな方法を探したんですね。
強くなる方法。実践もしてみました。
でも、強くなれませんでした。これっぽっちも。
だけど、誇りに思っていることがあるんです。
弱いのに生きてきたということです。
これは、本当に自慢できるのとです。
もともと強い人間が、楽しく生きてきましたなんてストーリーちっとも誇りには出来ません。
誇りになるのは、それまで自分がやりくりして来た軌跡にこそあるものだと思うから。
弱いのに、強い人や、普通の人と、ヨーイドンで小学校あたりから一緒に走って来たわけでね。
弱いなりにがんばりましたよ。ホントーに。
弱いから、性格の悪い強いやつにたくさん攻撃も受けたし、反対に弱いが故に沢山人も傷つけてもきました。
弱い人は決して無害ではないので。
僕は人よりも傷つきやすいし、
人の影響も受けやすい。
人の顔色も伺ってしまいます。
だから、大勢がいる場所がとっても苦手で、
1人ひっそりと森の中で妄想にふけっているのが、
好きだったりします。(なんじゃそりゃ)
僕みたいな弱い人は沢山いるのではないでしょうか?
弱いことは、得てして、
「自分を責める」という方向に意識が向きがちです。
どうして、「強くなれないのだ」と。
でも、それは裏を返せば、
強いことが正しいこと
という観念があるからです。
正解である「強い」がない自分は「ダメ」となってしまう。
でも、「弱い」はただの個性で、社会的にはハンデになるけど、それでも生きてきた自分「すごい」と、
とらえることだって出来るのです。
猿がゴリラを見て、なんであんな風にパワーがないのだ。。と嘆いているとすると、ちょっと滑稽なのです。
存在するステージが違うから。
オリンピックと、パラリンピックが分かれてるように、そこには基準そのものが違うのです。
そもそも猿はパワーいらないかも?ってことです。
だから、僕は弱いまま生きていこうと決めました。
そしたら、自分がすごく好きになったし、
誇らしくなったのです。
でも、弱いまま生きるには工夫が必要です。
猿はゴリラと同じ群れに入れられがちなことも事実。
どうしたら、弱い自分でも生きていけるだろう?
これは沢山考えないといけません。
強い人が得られる何かを捨てることも必要になってくるかもしれません。
でも、無理やり強い人たちと同じように生きるよりも、弱い人の居場所を見つけていく方が大切なんじゃないでしょうか。
弱いのを前提として選択肢を探すと、
今までの目線とはまるで変わってきます。
強い人と同じことをしないことです。
時として、
甘えてる!
とか、言ってくる人も出てくるかもしれません。
いや、いるでしょう。
でも、弱いんだから仕方ない。
それでも、弱いなりの作戦というものがあるものです。
もともと恐竜がいた時代に、
最弱だった哺乳類が、どうにかこうにか、
この時代まで生き残っているところを見ると、
弱いということは、「生き残れない」理由には
ならないようです。
まして、昭和の様に画一的な選択肢ではなく、
様々な選択肢を与えられる様になりました。
自由で選択肢が多いからこそ、迷うけど、
弱い人の逃げ道はそれだけ増えたとも言えます。笑
弱いことは悪ではなく、
一つの個性であるとすると、
その個性から見える景色もまた面白くなってものです。
弱いから、諦めることも沢山ある。
弱いから損をすることだって沢山ある。
でも、それなのにやりくりして、
生きてきた弱い人って、
ホントーは、一番強かったりして。