安心したい。

これってさ、人間の最も強い欲求なんじゃないだろうかと思う。

生きるというプログラミングが、僕たちにはされている。だから、死ぬのは怖いように出来ている。悟った人は別として。


恐怖があるのは、死なないため。


また、もう一つ、死なないために、痛みという感覚を与えられている。痛みという感覚がなければ、人はすぐに怪我するし、火傷するし、死んでしまうだろう。


つまり、大前提として、
恐怖とか痛みとか、そういう負の感覚を使って死なないようにプログラミングされている。


でも、この「死なない」ことが目的になると、
人生はとても辛いことになる。
確かに死なないために、さまざまな恐怖やら、痛みやらを使って生きてるだけじゃマジでしんどい。


幸せになりたいってさ、
結局、幸せな感覚を得たい、快感の感情を感じ続けたいってことですよね。


死とか、恐怖、痛みの反対側である
楽しいとか、嬉しいとか、そんな感情を感じてないと、最終的に苦しみに耐えられなくて死んでしまう。


そして、安全で安心な環境で育った人と
危険で不安定で、常に不安を感じる様な環境で育った人もいます。



僕は後者に該当して、まー、ことあるごとにトラウマが発動して、恐怖心に心が掴まれることが多いです。


で、少しずつ、少しずつ、変化を起こしてここまでやって来ました。


周りの人にはすごく変わったねえとか、
よく死なないで生きてきた!
とか、言ってもらえますが、
依然、僕の感覚は苦しいわけです。
何が苦しいって、不安が苦しいわけです。


安心、安全ではない!

という感覚が強く刷り込まれているわけです。


そこで、本気になって自分を変えていかないとなぁと思う様になってきました。


こんなに苦しいのに、苦しいからこそなのか、
まずは自己実現!みたいな方に走りました。


バキバキに骨折している人間が、
マラソン走りまーす!
と、半分常軌を逸したことを心の領域では、
出来ると勘違いしがちです。


僕が僕と仲直りをするには、
まず、自分が決めた、「罪」の判定を減らす。
基準からずれたら、罰を与えるというシステムを外していくということ。


責めそうになったら、罪を外していく。
ここで、まず骨折した箇所を殴るという行為を回避出来ます。


そして、次にいや、もっと早くすべきなのは、
安心をつきつめていくってことです。


安心したいのに、安心について積極的に何かを働かせて来ていたかというとそんなことないなと。


安心を求めてるのに、安心について考えない。
自己実現のことばかり考えてる。


骨折してる人が、骨折の治療のことを考えないで、マラソンの練習の準備ばかりをしていたというのが、これまでのパターンです。


で、こう言うのです。。

「ちきしょー!ちっともマラソンへの道がひらけねぇ!」

いやいやいや、

もう一度、いやいやいや、、、

あの、、、


骨治せー!!


ということです。


骨治す。

まず、骨折した箇所を殴らない。
そして、骨折が治りやすい状況を作っていく。


それが、脱罪のシステムであり、
安心を作り上げていく


ということでもあるということです。


で、もっともっと、自分が安心する方法を考えられるないものかと。
どうしたら、自分が守られている。安心していいと実感できるのか。


どうしたら、恐怖ではなく、安心のビジョンで、未来を見られるのか。

ちゃんと考えて来なかった様に思います。


こんなに安心したいのに。


僕の様に繊細ですぐ傷つく上に、
重傷を負っている人は、まず境界線を引いていく
ことなんだろうなと思っています。


ちゃんと自分が守られる領域、バリアを張れるか。


自分を守ることはダメ。
矢面に立って批判にさらせ!
みたいな怖いこと考えてましたからね。


ちゃんとディフェンスしてあげないとね。


自分を守る。
世間的には悪い意味で使われてますが、、、
自分を守れないってかなりまずい状況。


スポーツで言うなら、


ノーガードで戦うボクシング
ディフェンダー、さらにはキーパーのいないサッカー
ど真ん中、ストレートしか投げない野球
防具をつけないフェンシング
ヘルメットつけないで走るレーサー


ちゃんと自分を守って、
初めて攻撃(創造)に入れます。


ちゃんと守らないでボッコボコにされながら、
痛くねえとか言ってるのは強さじゃないよね。