アサッテの人読了

なかなか難しい小説ですね。
ブッキッシュとは違う次元の小説でした。

作中に出てくる名詞、ショウペンハウアーやシオラン。こういう厭世的なトラップもありつつ。
思考的にはウィトゲンシュタインを思い出し、構成的には伊勢物語を想い出しました。

伊勢物語の主役は和歌。言葉が主役になっているということです。
そしてその和歌と物語の起源以前的なもの、物語が生成してくる力のごときものが書かれています。

人が生まれる時、どう言語を獲得するのか、なにを信じて生きていくのか、そしてそのストーリーはどのように展開していくのか。こういったことはラカンがすでに体系化していますが、ストーリーという視点でみるとまったく異なる世界であります。

$DONBULI
後藤明生氏は高校の頃からの大ファン。
しかし、なかなか著作を入手するのは難しい。
たまーに古本屋で見かける。

で、「嘘のような日常」を発見。

タイトル通りに日常を綴った小説。
「吾輩は猫である」に似ているかもしれない。

嘘と日常がイコールでつながっているのが後藤氏らしく面白い。

そこからさらにリースマンの「孤独な群衆」を想い出した。
ところでブログを読みかえすと小説を読む時に、なにかしら他人の著作を想い出す、これも後藤氏の影響かもしれません。

大衆とは他人志向型の人間。現代にあってはTV、あるいはネットということになるでしょうか。
自分があるようで、ないような奇妙な感覚。

この大衆をヴァーチャルと名付けると精神分析医のガタリが対置したアクチュアルなものからより前景化してくる気がします。アクチュアルなものはあくまで前座みたいなもので、ヴァーチャルなものこそが「嘘のような日常」を形成していると。

嘘⇔日常の循環の中で、しかし単純な循環ではなく、相互連関的な循環。

日常は本当かもしれないし、嘘かもしれない。嘘は日常であるかもしれないし、違うかもしれない。
こういう感覚って、結構TVとかネットとかしてると降臨するような気もするんですが、どうでしょう。


DONBULI
目の前にし、しばし瞑想にふける。
とんこつらーめん。チャーシュー。ねぎ盛り沢山!
カラダも満足、ココロも満足。
諏訪哲史「りすん」を読んでて思い浮かべたのは泉鏡花でした。
ぼくはああいう泉鏡花の世界もひとつのリアルだと思っています。

たしかユリイカでキューバの小説家・詩人レイナルド・アレナス特集のインタビューで一番影響を受けたのは実存主義などもあるがアニメから影響を受けた。あれは一種の現実なんだと語っていたのを想い出した。

小説が現実をなぞる、写生する。
ぼくはこの物語がどのくらい現実に接近しているのか、検証はできないですけど、諏訪哲史的直観としてどこまで捉えているのかに非常に興味を持ちます。

それはある種の視点の複数性と言い換えることもできるでしょう。
あるいは現実の尋常ならざるものを写生するとも言えるでしょう。
ですので、「メタ」ファーではないと思っています。
どうしてもポストモダン的な小説はメタ的に読まれてしまう宿命があるのでしょう。

そういった宿命も含んだ小説だったなと。

金子光晴詩集とiPodを持ってぶらぶら。

DONBULI
シンプルな中華そばです!
焼き豚!シナチク!刻みねぎ。模範的で、満足な一杯。