知己(自分)の個人に関する情報は、『No.83 匿名希望』っていうハンドルネームに変えたのもそうですし、いろいろイベント会場から執拗に追跡したり目撃情報の聴き出しをしては個人情報の詮索と公共施設へのステルス・ゲリラ襲撃やデマ乱発のウワサ流しや誹謗中傷など行ってくるネット上に潜む犯罪者の件で、これまで、知己(自分)個人に関することは、過去にネット上でメンタル相談を公共掲示板などで話し合ってた件より以降はほとんど黙ってきていました。
ですが、知己(自分)に情報としての需要を求められる中で、【知己(自分)のようないわゆる壱般世間では「精神障害」と呼ばれる壱種の「異能」というような個性をどういう教育や躾で生活してきたのか?】など稀によく尋ねられたり問われることも出てきました。
知己(自分)がネット上で言う「学園」とは何なのか「まゝせんせい」とは何なのか「おじぃチャンやおばぁチャンの教え」とは何なのかなど、そういう部分をこの記事でまとめてみたくなりました。
【この記事は、あくまでも「異能」というような個性についてやその教育についての参考データをひとつの資料として書くもの】で、【この記事に書いた以上の生い立ちについてや個人情報や友人・近所への連帯責任やとばっちりを与えるような掲載はするつもりありません】ので、【知己(自分)がなぜハンドルネーム表記を『No.83 匿名希望』という匿うようなものにしたのかも配慮したうえで、リアルへのタレント視やアイドル視をしたような問いやコメントはプライバシー責任上のことも考慮したうえで絶対にやめてください。】
コメント・メッセージや記事内容に対するわかりにくい部分や誤字・脱字みたいな指摘などの問いについては良いので、よろしくお願いします。



・おじぃチャンとおばぁチャンについて



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知己(自分)には、そもそも実の両親に対しての印象は記憶にほとんどありません。
御袋は、そもそも知己(自分)を出産するのも妊娠の痛みのほか持病を持っている自分自身との戦いであったり、出産後もほとんど病院で暮らしているようなものだったりで、壱緒になにかしたような印象もなく、病気のまんま亡くなりました。
親父は、親という言動をろくにした試しもなく、子どもを「何でも自分自身の言うとおりにしろ」だの操り人形のような扱いをしたりして暴走したあげく、勝手に別の女性へとくっついて行ったりその後の行方不明になってしまいました。
ちびっこハウスのような孤児院などの施設にでも送るしかないようなことになったとき、おじぃチャンやおばぁチャンが知己(自分)のことを壱生の責任を持って引き取ってくれることを約束してくれました。
それまでは、稀によく遊びに行く御袋にとっての故郷のような家でしかなく、生活を壱緒にしているわけではなかったんですが、小学生になる以前の頃から、ほとんど病院で暮らすしかできなくなっていくことが多くなってる御袋と、親らしいことろくにしないでどこぞの芸NO人のような自分勝手カッコつけ気取りだけでしかない親父ではどうしようもなかったので、そういう相談の中で、おじぃチャンやおばぁチャンと壱緒に生活するようになりました。
それからというもの、【知己(自分)は孫ではなくて子になり、しつけ教育という意味でも、戦時のこと戦後のことそれらの生活環境の中で培ってきた自分自身の悩んだり考えたり生き抜くための度胸や精神の強さのようなもの】を染み込まれるように教えられました。
おじぃチャンやおばぁチャンの時代を考えれば、【都市圏で当たり前のようにお金を回すことばかりで物を選んで食べられたり】とか、【暖房や冷房から自動車や電車のあれこれまで利用できるもの】なども、【そもそものお金というもの】も、まるでないような環境だったとおもいます。
最近、おもえば、歸國(きこく)っていうあの終戦記念の特別ドラマの構成の内容についてどうおもったかの感想など、特におじぃチャンから聴きたかったものですけど、それも【老いては当時の思考力も運動力も衰えて出せなくなってしまっていたり亡くなってしまったひとには聴けなかったり、知己(自分)にとって未知な実感】でしかありませんね。

ですが、【空襲で焼けた野原だけしかなかったような都市圏を数十年でこうまで高層ビルや高速道路や電線や水道管などのあれこれを組み立てたりしてきたゝくさんのひとたちの強さ】、【軍事や食糧難で友人もなにも亡くなってしまうことのほうがたくさんあったり疎開された山や森のところでの村社会で不便利な生活をしてきたひとたちの強さ】、【失った孤独や絶望と生活をしてきたひとたちの強さ】など、そういう人間としての本来の強さみたいなものを教えたかったんだとおもってます。
おじぃチャンやおばぁチャンのような老人に、そこまでの親としてのできることにはムリがある部分もあるようなこともありましたけど、それでも、【知己(自分)を孤児として扱っていたのなら、知己(自分)は、多分、愛や情けを記憶にも知らずして恨んだり憎んだりホントに凶悪犯罪者みたいな悪魔じみた言動をしていた可能性もあるかもしれません】し、なにより【真心からの愛情を知らなかったり記憶にもないような心の孤独を与えたくなかったから】なのかもしれません。
料理を出せば、【こういう昆虫のような生命力や繁殖力(生産力)があるけどゲテモノ扱いの食べる物でもこんなに栄養があるから美味しく食べられるからと、イナゴの佃煮を推進して食卓にも出したりする】ようなひとだったり、なにか物を欲しがれば【ゴミクズと呼ばれる廃品の中からでも部品を集めてみて組み立てたりすればこういう道具がつくれるようなことを語っては「もったいない」が口癖のように部屋に物を溜め込むひと】だったり、そんな感じに「人間とは何なのか?」「生きるとは何なのか?」という哲学を身を持って教えてくれるようなひとでした。

中学生を卒業して以降は、おじぃチャンやおばぁチャンの手足になれるように側から離れてはならない制約の元、なにかと病に対して身心も弱かった子どもの頃の知己(自分)に仕送りやつき添いをしてくれたように、今度は、知己(自分)が不自由な生活をするようになりました。
ろくに外出もできず遊んだりもできずおじぃチャンやおばぁチャンのことで呼ばれたりすれば遣いを頼まれたり、仕事・学業と両立しながらやることはさすがに時間や空間の時空間でも操れない限り不可能であったり、そんな中、おじぃチャンが倒れて亡くなった後は、みんなの生活費ほとんどを稼ぐために働かざるを得ない環境に追い込まれていったり、【真面目に学歴や高収入かつ風紀違反や不安定収入などの業務禁止(当時は専門学校の志望だったりした芸能業務や作家関係など何ひとつできず)で公務員や生活産業の仕事という仕事に携わることを条件】など、制約を課せられることになりました。
この頃あたりから自分で自分自身が何なのかわからなくなっていったり、当時のみんなの使うケータイ端末のマイクロレベルの精度部品をつくる精密工業や職人気質や多分、精密仕事上の神経ストレスから来る八つ当たりも含む気への配慮や自分自身の立場を失うような恐怖心のため言い返しができなかった等のことで気絶して脳神経破壊された精神病になるわ夢遊病で活きた心地がしない苦痛を味わった死に損ないの人生を経験を積む原因にもなったのかもしれませんが、【苦しかったのはそもそも老衰してしまって考えられない動けない自分自身へのストレスを抱えていたおじぃチャンやおばぁチャンなどの家族もみんな苦痛だったのかもしれません】し、【どんな苦しくても戦時や戦後の生活体験からすれば「甘ったれ」「弱虫」「ザコ」みたいなものなんだろう】し、たゞ自分自身の無力さを責め続けることしかできなくなってたのも、そういう事情あってのことだったのかもしれませんね。
貧しいという漢字と幸せという漢字を組み合わせて貧幸というシアワセがあるっていう言葉は、なんだかそのとおりにもおもえました。
考えたり悩んだりドキドキワクワクしたり落ち込んだり泣いたり家族ほか村社会みたいな近所のコネクションから得られた演出でもない実感のことは、別に寂しさや心の貧しさみたいなものは、うわっつら関係のカッコつけの狐や狸なんかに振り回されまくるよりはシアワセでしたし、おじぃチャンやおばぁチャンのことを2度の死のように忘れ去られるようなことにしたくないと、はっきりと実感で覚えられるほど嬉しかったです。



・まゝせんせいと学園生活について



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いろんな意味で「特別な子」のように扱われることが多かったり「普通な子」のように扱われることが多かったりした、特に小学生の時代。
実の両親がいないようなものだったこと、おじぃチャンやおばぁチャンでは祖父母にはなれても父母にはなれなかったこと、そして普通な子じゃなかったこと、いろんな事情があって、当時は何も知らずにランドセルを嬉しがってた小学校に入学させてもらっていました。
学校ではなく学園であって公立ではなく私立であった環境を秘密裏につくってくれていた担任教師のまゝせんせいのクラスで暮らすことになりました。
どうして「まゝせんせい」なのかというと、知己(自分)にとって、【小学校でありながら保育園】であったり、【両親がどういうものなのかも知らない子へのおかぁさんのような保母サンみたいなもの】だったからです。
あまりの小悪魔じみたイタズラ心や世話を焼かせるクソガキ言動のひどさに、特別学級へ入れないといけないようなほど悩んでいたこともあったんだとおもいますが、まゝせんせいは、校長や教頭や他クラス教師のひとたちにも(魔女じみているカリスマ言動で)交渉していたんだとおもいます。
【私立だったらともかく公立としては、いくらギフテッド教育のような意図があったにせよ、この特別待遇は特に当時の校則としてはかなり問題だった】んだとしても、知己(自分)のことを、あくまでも「普通な子」として、まゝせんせいが担任をするクラスに入れて、「特別な子」として接してくれていたんだとおもいます。
それにしては、授業時間とか無視して砂場や遊具のところで遊んでいたり音楽室でオルガンや木琴やドラムなんかで遊んでいたりしょっちゅう職員室や保健室に来たり動物の飼育小屋の中にいたりとか、あまりにも校則から外れた言動がひどかったんですが、まゝせんせいは「学校より外に出ないこと」「他のクラスも含む授業妨害をしないこと」などの約束を守っていれば放置だったり、【授業内容を生徒たちに放り投げして知己(自分)といっしょに遊んだりお話したりしてくれていたこともあったり】、抱いてくれたこと撫でゝくれたこと悩んだり困ったときは相談だって受け入れてくれたり、とにかく「なんで?」「なんで?」質問で責めるような知己(自分)に対して、わからないことがあればインターネットもないような世においても図鑑とか引っ張り出して読み聴かせてくれたようなこともありました。
おじぃチャンやおばぁチャンにできない母親と暮らすという実感をたくさん与えてくれたおかげで、子ではなく孫に対してのような甘やかしでもない親の事情のこと、たくさん心身を持って教えてもらった気がします。



・孤島のような場所に隠された異能開発プロジェクト



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実際、人間不信や対人恐怖症で感覚過敏のひとが防衛本能のせいなのか対象の表情や仕草などから読心術をできるような、いわゆる【超能力の資質を覚えることになってしまった】り、そういった【特殊や異能であったり常識では通じない非常識であったり常識社会で差別や弾圧を受ける子たち】を孤島のような場所に匿っては、才能として学ばせたり弁護してやがては世へと送り出す施設のようなクラスや学園であったのかもしれないです。
「来たれよ…【障害という個性を得し者…】人間に未だ幻想を抱くものよ… 誘おう…真実を知らしめんために…」
今おもえば、全知全能の母性を持った魔女(魔王)にこんな感じに誘い出されたような、生きる と 邪悪 を実感を持って教えるためのものだったのかもしれないです。
おかぁさんという意味で、まゝせんせいは、「絶対に憎んではいけない」なども教え込むような魔を知っているようなひとでしたから…。



・あとがき



10000バイト容量につき書けない。w

2015/12/6