なんとなく今回のISISに関する一連の報道やらSNS上の議論に対して違和感があって、
でもそれがなんでだかよくわからなかったんだけど、いろいろ考え抜いたあげく思うことがあったので備忘録的に。

お目汚しになるかもしれませんので、嫌いな方はどうぞ読み飛ばしてください。


私は自己責任論に対して賛成でも反対でもないけど、どうして彼が殺されたのかとかどんなふうに殺されたかとか責任は誰にあるのかとか、そんなことより後藤さんという一人のジャーナリストが命をかけてでも伝えたかったことは何なのかを知りたいと思った。

なにせ、この事件があるまで後藤さんという人物の存在を知りもしなかったし、正直、自分の命を危険にさらしてまで知らせなければならないことってなんだろう、そんな情報にどこまでの意味があるんだろう、ということがどうしてもよくわからなかったから。

よく、台風のときに危険な防波堤の近くで必死に報道してるリポーターとかいるじゃないですか。
ああいうの、ほんとに意味ないっていつも思っていたし。

で、ネットに出ている僅かな情報を読んだだけでも明らかに感じたのは、後藤さんて、取材している紛争地帯に生きる人たちのことが本当に大好きだったんだなあということ。
本当に、そこで大好きな人たちに出会ってしまったんだろうなあと。

世に言うジャーナリストとしての使命感だの自分の存在意義だの、そんなわかりにくいことじゃなくて、単純に人と人との結びつき。
大好きな人たちが苦しんでる。会いに行きたい。役に立ちたい。それだけだったんだろうなあと。
湯川さんという人の存在も、そこにはあったかもしれない。

いずれにしろ、台風リポーターとの大きな違いはそこだ。人だ。愛情だ。
愛情は理屈抜きなんだ。

そこにはもしかして、国際人としては無責任と言えるような自己判断があったかもしれない。覚悟が甘い部分もあったかもしれない。
その点で彼が非難されることについては、私も致し方ない部分があるとは思ってる。

けど、それは今さら結果論であーだこーだ言っても仕方のないことで。
これについては、「二度とこのようなことが起こらないよう万全の対策を練りましょう」で終了。

それよりも、もし彼の死がさらなる紛争や対立の火種となり、彼が命を掛けて愛した人々の更なる苦しみに繋がってしまうとしたら、それは彼の死を無駄にするどころか、彼が何よりも悲しみ嘆くことなんじゃないかなと。

今までもこれからも、幾多の罪のない善良な人々の命が失われ危険にさらされていることを、彼は心の底から嘆き、命をかけてまで私たちに知らせようとした。

それを思ったら、今わたしたちがやらなくちゃいけないことは自己責任の議論なんかではもちろんなく、報復でも徹底交戦でもないような気がする。
政治利用なんて言語道断。


人の命は重い。でも、重いのは日本人の命だけじゃない。

それを一番よくわかっていたのは、後藤さんだったと思う。