今日で、沖縄が日本に返還されて40年です。


私の父は沖縄生まれなので、私の体にも半分沖縄の血が流れています。

沖縄には親戚や友達もたくさんいて、小さいころから何度も訪れている特別な場所。

東京生まれで故郷のない私にとって、沖縄はまさに第二の故郷です。


私が生まれた71年12月はまだ、沖縄はアメリカでした。

結婚式をするのにも、母はパスポートをとっていったそうです。


物心ついた時には沖縄はすっかり日本の一部だったので、何の問題もなく飛行機で行き来できましたが、

子供心に、島の真ん中に横たわる大きな基地の鉄格子や、街中を普通に走る戦車に驚いたのを覚えています。


住宅街ではしょっちゅう不発弾処理があって、

近くの住人は、その都度自宅から避難するように言われます。


押し売りをひとりでおっぱらうほど気の強かった私たちのおばあは、

非難するのが嫌でいつも居留守を使っていたらしく、

そんな暴露話に孫たちみんなで大笑いしたこともありました。


空港のそばにも防空壕の跡があったし、アメリカンなお店も街中にはたくさんあって、


眩しい空の青さと木々の深い緑、そして鮮やかな琉球の朱色が織りなすコントラストと同じくらい、

戦争の、いえ、アメリカの面影は、私の中での「沖縄」と強く結び付いています。




40年前のあのとき、本当に沖縄は日本になったのでしょうか。

日本は、本当に沖縄を受け入れたのでしょうか。


沖縄と日本の間には、どうやっても埋まることのない溝が、

今でもはっきりと存在しているのではないでしょうか。


うちなんちゅが、ないち(本土)の人間を見る目は違います。

あたりまえです。


この小さな美しい島を、みんな愛している、素晴らしいと言いながら、

都合の悪い基地のことになると、ふいっと他人事のように目をそらすのです。


沖縄の美しさとしまんちゅの優しさが、抱えきれないほどの悲しみの上に立っていることを、

本当に理解している日本人がどれだけいるのでしょう?



私は、なんだかんだいっても内地の人間です。

沖縄に行けば「ないちゃー」です。


でも私の中には、まぎれもなく沖縄の血が流れています。


だから、40年経っても近づくことのない沖縄と本土の心の距離を感じる時、

せつなくて悔しくて、心が二つに引き裂かれるような気がして涙がこぼれます。



「沖縄を返せ 沖縄を返せ」の大合唱で、日本と沖縄が一体となった返還運動。

40年後の今、デモの大合唱は「沖縄を返せ 沖縄に返せ」だそうです。


こんな悲しいことってありますか。

沖縄はもう、日本に期待をしていないのです。

日本の捨石になるのはもうたくさんだと、差別はもうたくさんだと、みんな思っているのです。


それでも、明るく心優しく、忍耐強く、誇り高いうちなんちゅは、

抱えきれない怒りや悲しみを心の底に押し込めて、なんくるないさと笑うのです。



私には政治的な難しいことなどわかりませんが、

どうかみなさん、今日は一日、沖縄に思いを馳せてください。

そしてどうか、その痛みに寄り添ってください。



あの美しい海と空と人と空気を、愛さない人間はいないと信じます。