「あのね、マンションの鍵を変えようと思うんだよね。
ほら、ピッキングとか、今怖いじゃない?
だから、一回合鍵返してもらってもいい?」
いつもと変わらない笑顔で、彼女は言った。
近年の泥棒事情がニュースでもよく話題になっていることくらい僕も知っていた。
彼女の部屋は二階ということもあって、僕も心配だったぐらいだ。
だからその言葉を何も疑わなかった。
疑う理由すらなかったからだ。
僕は素直にキーケースから一本の鍵を取り出して、彼女の手のひらの上に乗せた。
「ありがと。」
銀色の鍵を受け取って、彼女はまたニコと笑った。
彼女の笑顔が僕は好きだった。
メールが来ないな。
電話も来ないな。
寂しがりやの彼女が連絡をしてこないのはおかしいな、と思った。
けれど僕からするのはなんとなく控えていた。
特にそんな意味もなかった。
ただ忙しかったから。
いや、そんなに忙しくもなかった。
彼女からの連絡をただただ、待つばかりだった。
突然行って、困らせてやろう。
たまに僕らがやりあうイタズラだ。
部屋が真っ暗な中にじーっと待っているのはとてもスリリングないたずらだった。
そしてそして、とても幸せな時間だった。
今夜は久しぶりに夕食を作って驚かせよう。
スーパーで食材を買ったらなんとふた袋にもなっていた。
そうそう、甘い酒が好きなんだ、彼女は。
そのくせすぐ酔うところも、なんともかわいい。
ハタ、と気づく。
ドアの前で。
キーケースを開いたが、彼女のマンションの鍵がない。
ああ、この前返したからだと思うが時遅し。
呼び鈴を押す、が、反応がない。
イタズラ、失敗。
仕方がないので彼女を待とう。
重いビニール袋を床に下ろして長期戦を覚悟した、その、時。
僕はないことに気づいたのだ。
見慣れた彼女の苗字が、貼られていたはずのドアから。
彼女は引っ越していたのだ。
僕に内緒で。
メールも電話ももう通じない。
どうしてだかも、わからない。
彼女が今どこにいるのか、なにをしているのか、何を考えているのかも。
あんなに近くにいたのに、何一つ。
一本の鍵を失ったキーケースは空にも浮きそうな軽さだった。
彼女が誕生日にくれた、宝物のキーケースだった。