1.はじめに

 「歴史」は好きだが、高校で学ぶ日本史/世界史は嫌いだというのが世間一般の認識らしい(『Doing History;歴史で私たちは何ができるか?』)。「刀剣乱舞」や「艦これ」が流行したのはつい最近のことだし、どちらも歴史上の武器や兵器を題材としている。また毎年のように歴史を題材とした映画は公開されているし、テレビのクイズ番組でも歴史は相変わらずジャンルの1つを占めていることだろう。

 

 しかし高校の日本史/世界史となると「歴史=暗記」という図式が成立して、生徒にとってはつまらないものになってしまうようだ。その原因は大学入試にあるといっても過言ではないであろうが、ここでは割愛する。ともかく、多くの生徒は高校で教えられる歴史に興味がない。

 

 生徒が日本史/世界史の内容に興味・関心をもちにくい現状を打開するためには、当たり前のことだが、導入の工夫が必要不可欠である(一般に、社会科の授業は生徒の興味関心をつかむ「導入」、興味関心をもとに授業を進める「展開」、その時間の総括となる「まとめ」で構成される)。

 

 どのような導入が効果的か。教育実習で指導してくださった先生が、「生徒に極めて近い例か、極めて遠い例」という秘訣を教えてくださった。また前掲書では、正統的周辺参加という概念を紹介している。この概念を端的に言えば、生徒は世間一般で必要がないとみなされている行為を習得しようとしないという考え方のことで、逆に言えば、世間一般にかかわりのあることを取っ掛かりにすれば、生徒は歴史を学ぼうとするということでもある。

 

 今回は「イタリアの統一」を例に、私なりの導入の工夫の一例を述べようと思う。 

 

※…より正確には、「自分が所属している集団、または所属したいと希望する集団で正統なる構成員として認めてもらうために、その集団が価値を見出す行為を自分のものにする、逆に言えば、そうした所属している集団、所属を希望する集団が価値を見出していないこういについて、あえて人はそれを自分のものにしようとはしないという考え方(前掲書、13ページ)」

 

 

 

2.イタリアの統一

 この曲を聴いたことがないという人はなかなかいないであろう。ヨハン・シュトラウス作曲の『ラデツキー行進曲』は多くの生徒が一度は耳にしたことのある音楽で、クラシックの中でもかなり有名な楽曲であろう。

 

 この曲は国家としてのイタリアにとっては屈辱的な音楽である。それを最初に生徒に提示して、なぜ屈辱的な音楽なのかは謎のままにしておいて、授業の展開にはいる。1848年のフランス2月革命でウィーン体制が崩壊すると、この革命が世界各地に波及した。革命の波はイタリアにまでおよぶものの、1848年の段階では成功に至らない。マッツィーニが率いる青年イタリアによるローマ共和国建国も、カルロ・アルベルトのサルデーニャ王国によるオーストリアへの宣戦布告も失敗する。

 このサルデーニャ王国の野望を叩き潰したのが、オーストリアのヨーゼフ・ラデツキー将軍であった。ラデツキー行進曲はこのラデツキー将軍のために書かれた曲であって、オーストリアが領土を守ったことを記念する楽曲であったのだ。すなわち逆にイタリアの側からすれば独立運動をつぶされた屈辱の楽曲となるわけである。

 授業としてはこのあと1861年にイタリア王国が成立するまでを取り扱い、そして後半ではドイツの統一について扱うわけだが、今回はここで筆をおく。

 

 

 世間に常識とされていることがある。常識は多岐にわたるが、今回のラデツキー行進曲もそのなかの一例で、「大人」として知っておかなければならない教養のひとつであろう。

 世間にとっての常識を導入で取り扱うことで、生徒が少しでも高校の歴史に目を向けるきっかけになればいいとおもう。また逆に生徒の常識に揺さぶりをかけることで、生徒の興味関心を引くという手法もあるだろう。どちらにせよ、「常識」という概念が生徒の興味関心を引くためには重要なことなのであろう。

 

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