『日本人として忘れてはならない4つの日シリーズ』8月9日

田中の知り合いのある学校の先生がFACEBOOKに記された文です。ぜひお読みください。
(ここから)
8月9日。先日の8月6日のシリーズに続く第3弾です。ちなみに、第1弾は6月23日の沖縄慰霊の日。そして、もう1つは8月15日。以下のことを2学期以降、どこかのタイミングで子どもたちに伝える予定です。参考にできるところがあったらお話しください。

8月6日に続き、上皇陛下が「日本人として忘れてはならない4つの日」のうちの1つ、8月9日です。何の日ですか。

そう、広島に引き続き、長崎に原爆が投下された日です。これもまた名称をあらためるべきです。「長崎大虐殺」と。

また、この日は、ソ連軍が日ソ中立条約を一方的に破棄して満州、北鮮、樺太、アリューシャンへの侵攻を開始した日でもあります。このことも決して忘れてはいけません。

さて、長崎で原爆が炸裂したのは昭和20(1945)年8月9日、午前11時2分です。

この原爆投下時の情況について、
「空襲警報が鳴ったけれど、なぜか解除されたところに原爆が落ちた」とか、「大本営はB-29の無線をキャッチしていたけれど、これを放置した」とかいう論があります。

これは、当時の軍に悪い印象を与えようとする妄言です。報道だから何を言っても良いと思うのは傲慢です。

長崎市の当時の人口は24万人で、原爆によってお亡くなりになられた方は14万9千人。なんと市民の62%の命が一瞬にして奪われました。

このときの死者数は、すこし複雑です。一般に戦死や殉職死は、国家の保障の対象とされます。

ところが原爆の場合には、熱線、放射線、後障害、高熱火災、爆風、建物倒壊等による被災など様々な状況があります。
従って、即死、即日死をまぬがれた人であっても、その数日後、あるいは数カ月後にお亡くなりになるケースが生まれます。

長崎原爆の場合、爆心地から半径1km以内が、即死・即日死で、およそ7万人。1km圏外での即死・即日死が、周辺地での死者が7万人、そして数ヶ月のうちに亡くなった方を含めると、上の数になります。長崎への原爆投下は、本当に大災害を引き起こしたのです。
ところが実は、被害はもっと大きかったかもしれなかったということは、あまり知られていません。

どういうことかというと、長崎への原爆投下の、つまりこの日の原爆投下の、当初目標地点は、福岡県小倉市(現:北九州市)だったということです。

当時の小倉市(現:北九州市)の人口は約30万人です。小倉市は、長崎以上に平野部が広がっています。つまり、長崎と違って遮蔽物となる山がありません。

そこに原爆が投下されると、熱線による被災は、北九州の戸畑、若松、八幡、門司全域だけでなく、さらに関門海峡を越えて対岸にある下関市にまでに及びます。

従って被害規模は、推定で即日死が30万人以上、数か月後の死者を含めると、おそらく40万人以上の被害が生まれたことでしょう。それこそ、ぞっとする事態です。

この「当初目標地点が小倉市であった」という事実は、私たちが知っておかなければならない重要な事実です。

ではなぜ、原爆投下が、小倉から長崎に変更になったのでしょうか。

この日、原爆投下のために米軍が飛ばしたB-29は6機。6機は別々に飛び立ち、硫黄島を経由して、屋久島上空で合流する予定でした。

ところが4機にエンジントラブルが発生し、4機は出発をし直しに帰還しています。残りの2機だけが午前9時44分に、目標地点である小倉市に到達しました。

その飛来したB-29に、小倉造兵廠にいた陸軍守備隊は、あらゆる火力を使って応戦しました。空中で炸裂できるもの、あるもの、全部を撃ちあげて、空中に巨大な煙幕を張ったのです。

3日前の6日には広島に原爆が投下されているのです。

B-29の大編隊なら焼夷弾投下の可能性もありますが、わずか2機で飛来したということは、それは「原爆投下のためにやってきた可能性が大」なのです。

ですから、小倉造兵廠の陸軍守備隊は、市民を護るため、それこそ必死の応戦をしました。

当時の日本の高射砲は、B-29の高高度飛行までは弾が届きません。けれど爆弾投下のためにB-29は、高度2000メートルくらいまで降りてきます。普通なら、B-29がある程度の低空飛行になるのを待って、高射砲を撃つのです。そうでないと弾がもったいないからです。日本は物資が少ないのです。

ところがこのときの小倉造兵廠の陸軍守備隊は、B-29の飛来とともに、あらゆる火力を動員して、B-29の真下に手許にある炸裂弾を片端から撃ちあげました。そうすることによって、B-29の真下に、煙幕を張ったのです。

大きな花火大会などを見に行ったことがあるならわかると思います。風向きによって花火自体の煙が空を覆ってしまい、肝心の花火が全然見えなくなってしまうことがあります。小倉造兵廠の陸軍守備隊は、まさにこれをやったのです。

こうなるとB-29は、高い高度にある煙幕のために、目標地点の目視ができません。煙幕の下に出ようとすれば、今度は高射砲の餌食となります。

それでもB-29は、45分かけて、低空飛行に移って目標地点を補足しようとする行動を3度繰り返します。

そしてその、まさに「めちゃくちゃに撃ってくる高射砲」の煙幕のために3度目の低空飛行入りに失敗したとき、陸軍の芦屋飛行場から飛行第59戦隊の五式戦闘機が、同時に海軍の築城基地から第203航空隊の零式艦上戦闘機10機が緊急発進やってきたのです。

このためB−29は小倉への原爆投下を断念し、目標地点を第二目標の長崎市に切り替えて小倉の空から去ったのです。こうして、小倉市民は救われました。

小倉から対岸の下関に及ぶ地域の40万の命が守られたのは、まさに日本の陸海軍のおかげです。

さて、小倉上空を離脱したB-29は、目標地点を第二目標の長崎に切り替えました。そのB-29が、長崎上空に達したのは、小倉上空で原爆投下をしようとした約1時間後の午前10時50分のことです。
この日の長崎上空は、積雲に覆われていました。

積雲は分厚い「夏の雲」です。つまり、B-29は地上から発見されないまま長崎上空に到達しています。

B−29 B−29

発見されていませんから、当然、地上からの反撃もありません。
ところがB-29の側も困りました。第二目標の長崎上空に達したことは機内での計算によってわかっているものの、積雲の上を飛行しているため、原爆投下の目標地点の目視ができないのです。

つまり、そのままでは原爆の投下ができなかったのです。

ところがこのとき、空を分厚く覆っていた積雲に突然割れ目が生じました。そこから眼下に長崎の街並が見えました。

そこでB-29は「手動操作で」原爆を投下しています。

それが午前11時1分のことです。

放物線を描いて落下した原爆は、およそ1分後の午前11時2分に炸裂しました。爆心地である炸裂の場所が、長崎市街中心部から約3km逸れたのは、このような事情があったからです。

原爆は、長崎市松浦上地区中央にあったテニスコート上空、高度503mで炸裂しました。

長崎に投下された原爆の威力はTNT火薬換算で22,000トン(22キロトン)です。これは、広島に投下されたウラン235型原爆の1.5倍の威力のある爆弾でした。

この炸裂によって、長崎市の浦上地区はほぼ完全に瓦礫の平原となり、一瞬で町に住む14万9千人がお亡くなりになりました。広島よりも威力の大きな爆弾で、広島(人口20万人)よりも死傷者が少なかったのは、爆心地が市街中心部から多少逸れたこと、および長崎市の周囲をとりまく山々が遮蔽物となったことによります。それでもおよそ15万人にものぼる市民の命が奪われました。

では、どうして長崎では、空襲警報も応射も間に合わなかったのでしょうか。わずか3日前には、広島に原爆が落されたばかりです。

当然のことながら、長崎でも強烈な危機感を持ってB-29の飛来を警戒していました。一方、硫黄島を出た二機のB-29は、午前9時すぎに大分県姫島方面から日本領空に飛来し、9時44分に小倉に現れました。

このため長崎では午前10時過ぎに、いったん警戒警報の解除を行っています。なぜなら、B-29の空爆先が小倉とわかったからです。

いったん防空壕に避難した長崎市民も、日常の生活に戻りました。ところがそのB-29は、小倉での爆弾投下に失敗しました。
そして移動するのですが、北九州から長崎までの空は、ぶ厚い積雲が覆っています。また、高高度を飛行するB-29は、雲の上を飛びますから、地上から見えません。

このことは、B-29の側にとっても、地上が見えないことを意味します。そこでB-29の乗員のひとりが、航法士に「現在地はどの辺りか」と尋ねたのです。

このとき答えようとした航法士が、誤って内線用のインタホンのスイッチと外部送受信用の無線スイッチを取り違えて、返事をしました。

このためB-29の機内通信が、外に洩れました。よほど慌てたのでしょう。慌てた操縦士が運転を誤り、あやうくもう一機のB-29と空中で衝突しそうになっています。

この無線を、鹿児島沖で作戦からはぐれて迷子になって飛行していた別なB-29がキャッチしました。

そのB-29が、突然はいってきた現在地を知らせる僚機の無線に、
「チャック、いまどこにいる?」と音声無線を返したのです。

これが午前10時50分です。

この無線通信を、日本も傍受しました。ほんの一瞬の無線漏洩ですが、高度警戒態勢にあった日本の通信傍受隊は、B-29の一機が鹿児島沖にあり、もうひとつが長崎方面にいると場所を突き止めます。そしてすぐに長崎に警戒を呼びかけました。

知らせを受けた長崎市では、すぐに空襲警報を鳴り響かせています。これを聞いたら、市民はなにはさておいても防空壕へ避難することになっています。

いつもなら、これだけの対応なのですが、広島の原爆投下で甚大な被害を受けたばかりのできごとです。

軍と市は一体となって、空襲警報だけでなく、ラジオの臨時ニュースでも動員して、長崎市民への緊急避難を呼びかけました。
ラジオからは、「長崎市民は全員退避せよ。繰り返す。長崎市民は全員退避せよ」という声が繰り返し流されました。
そしてその臨時ニュースの声が「全員退避…」と言ったところで、原爆が炸裂しました。そして、ラジオの声は無変調になりました。アナウンサーの声は、原爆が光ったその瞬間で途切れたのです。

この当時の状況について、「長崎への原爆投下は、空襲警報が鳴ったけれど、なぜか解除された。そこに原爆が落ちた」とか、「大本営はB-29の無線をキャッチしていたが、これを放置した」とかいう妄言を言う人がいます。けれど長崎では、いったん空襲警報が解除されたあと、原爆の炸裂前に再度警報が出されています。しかもその二度目の警報は、もしかしたらそれが新型爆弾(原爆のこと)かもしれないと知っていながら、ラジオのアナウンサーも、局のスタッフも、死の瞬間まで市民への呼びかけをやめず、逃げずに繰り返したのです。そしてその放送は、軍の無線キャッチによる警戒情報発令があったからこそ行なわれたことです。

事実の断片だけを切り取って、まったく異なる事態であるかのようにすり替えることがあっていいのでしょうか。

ところで、皆さんが今見ている写真は長崎に原爆が落ちたときのものです。何もかもが瓦礫の山となった中にあって、長崎の山王権現様の鳥居だけ、まるで無傷で建ち残っています。

鳥居が残った理由は、物理的には「鳥居は石でできた穴の空いた台にはめ込んでいるだけであったから、爆風を柳に風と受け流すことができた」というものです。

しかし、そうであったとしても、熱風をものともせずに、そのまま立ち続けているのは、やはり不思議なことです。

山王権現というのは、日吉(ひよし)様の別称です。

もともとは大山咋神(おおやまくいのかみ)を御祭神としています。(他には、大国主命、大歳命。すべて国津神です)

お名前にある「咋」とは「杭(くい、くひ)」のことで、大きな山に杭を打つ、すなわち大きな山の所有者の神様であり、山の地主神であり、そこから国土鎮守の神様とされています。

つまり、この鳥居は日本にはれっきとした神々がおわすこと、そしてたとえ焼け野原になっても、決してめげることなく、雄々しく起ち上がれという神様からのメッセージを表しているのではないかと思うのです。(現在は無事だった鳥居はなく、半分になった鳥居のみ残っています)

おわりにひとつ。

北九州が「必死の抵抗を試みたことで救われた」ということは、私達日本が世界で唯一の原爆国であるだけに、しっかりと認識すべきことなのではないかと思います。残念なことですが、世界は、必死の自衛を講じなければ、民族ごと蹂躙されるのです。それが世界の現実であり、歴史であり、真実です。

これによって日本人は、現実に犠牲者を出しています。北九州の小倉で行なわれた必死の抵抗は、まさに自衛権の行使です。

上空が弾幕の煙幕で隠れてしまうほどの対空砲火を行ったということは、それが市街地ですから、その対空砲火の流れ弾や上空で爆発した弾薬の破片等が市街地に落下してきて民家等に被害をもたらす危険だってあるのです。

けれど、だからといって対空砲火を「しなかった」なら、何が起こったのでしょうかということにこそ、私たちは気づかなければならないのだと思います。

長崎での原爆投下によってお亡くなりになられたすべての御霊のご冥福をお祈りさせていただきます。

※参考文献「ねずさんのひとりごと」