久邇宮朝彦親王百二十年祭詞(平成二十三年十月二十七日) | laphroaig-10さんのブログ

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久邇宮朝彦親王百二十年祭詞



此の大室を厳の斎場と祓へ清めて神籬差立て暫し招奉り坐奉る、言はまくも綾に由々しき故神宮祭主神宮久邇宮朝彦親王の命の御霊の御前に皇學館大学教授本澤雅史謹み敬ひ恐み恐みも白さく、


宮の命や、文政七年六正月二十八日、伏見宮邦家親王の御子として此の現世に生出で坐して、幼名を熊千代また富宮と称へ奉り、天保二年八歳にして本能寺に入り給ひしより以来、一乗院主、興福寺別当、青蓮院(しょうれんいん)門主、天台座主に就き給ひ、御名をば尊融また青蓮院宮、また粟田宮と称へ奉れり。安政六年三十五歳、安政大獄起こりて「隠居永蟄居(ちっきょ)」に命じられしも、文久二年に赦免され帰り坐しては「国事御用掛」を仰せ付けられ、幕末動乱の世にありては孝明天皇を助けあななひ奉り給ひ、国の政に力を尽し給ひぬ。

かくて、文久三年四十歳にて還俗し給ひ、中川宮また賀陽宮の御号を賜り「朝彦」の御名を賜り、明治の御世となりては、八年五十二歳にて久邇宮の御号を賜り、神宮祭主の宮に陞り給ひぬ。

宮の命は、神の朝廷の御祭祀の基を築き給ふのみに有らず、諸の外国より寄せ来る潮激しき中にありて、神職等を学の道に誘ひ導き給ひ、皇国学の基をも立て給はむと、明治十五年四月三十日「今般、林崎文庫へ皇學館設置候条、此の旨相達し候事」との令達を下し給ひしによりて、皇學館の学びの扉は開かれぬるは、最も尊く最も厳しき御心にぞありける。

明治二十二年神宮式年遷宮を古き儀の隋に仕奉り給ひて後の世の鏡と立て給ひしかど、明治二十四年十月十六日、皇大神宮の神嘗祭の由貴大御饌に仕奉り給ひし後に病に臥し給ひ、二十五日六十八歳を一世の限と入日なす隠ろひ坐しぬ。今、年波を掻き数ふれば今年はしも、宮の命の神去り坐ししより百二十年には来経行きぬれば、皇學館の基を開き給へる高き尊き御業績を仰奉り偲奉りて御霊祭仕奉らくと、


御前に御食御酒種種の味物を献奉り、学校法人皇學館理事長佐古一冽、学長清水潔を始めて教職員学生等参集侍りて太玉串捧奉りて拝み奉る状を、御心も平穏に諾ひ聞食して、


明くる年創立百三十周年・再興五十周年を迎へむとする皇學館の行く手を見晴かし導き給ひ、更には初山を踏み分け入らむとする学生等の上にも御霊幸へ給ひて、惟神の大道を万千秋の長五百秋に神路の山の鉾杉の高く厳しく、五十鈴川流るる水の清く遠く守り幸へ給ひ、諸人等各も各も宮の命の御心を忘るる事無く、失ふ事無く弥遠永に受け継がひて、皇御国の大御栄に心を尽くし力を致さしめ給へと謹み敬ひ恐み恐みも白す(平成二十三年十月二十七日奏)