#テオ もうひとりのゴッホ
芥川龍之介は、彼の著「或る阿呆の一生」の中で、「私は、ゴオグの絵を観て、絵画というものを了解した」と書いています。その「ゴオグ」というのは、ヴィンセント・ファン・ゴッホのことに違いありません。確かに素晴らしく、魂の叫びを感じる絵画群です。でも、ゴッホ存命中は、絵が1、2枚しか売れませんでした。
じゃあ、ゴッホはほとんど無収入となるわけで、芸術家の場合は、いわゆるパトロンがいれば安心して創作に励めるでしょうが、ゴッホにはそんな人さえいませんでした。・・・それは、パリで雇われ画商を営んでいた弟のテオ・ファン・ゴッホが月給300フラン(19世紀末当時)から、半分の150フランを、毎月欠かさず兄に送金していたからなのです。
画家と画商・・・きわめて相性が良さそうですが、この兄弟の場合は大変でした。絵を観る目のあるテオは、当時まだマイナーだった印象派のモネとかドガ、ルノワールなどの展示・販売までは成功しましたが、もっと先端にいて絵画を創作していたヴィンセントの絵は、売るスベをテオは持っていなかったのです。テオが務めていた画廊も、保守的な経営者で、テオの提案に、うん、とは許諾しませんでした。
それに、ヴィンセントは精神病質で、人付き合いも下手でした。また、19世紀末当時飲むのが好まれた魔酒アブサンも愛飲していたようですが、この酒に配合されていたワーム・ウッドが中枢神経を傷つける「ツジョン」という成分を含んでいたので、その作用も彼を蝕む原因の一つだったと思われます。同居して絵画に精進しようと誘ってやってきたゴーギャンと、ほどなく喧嘩別れして、あの有名な「耳きり自傷事件」を起すのです。彼はすぐさま精神病院のお世話になります。彼の奇行は止まらず、油絵のテレピンオイルを飲んだり、絵の具を食べたりしています。最期は、ピストルで胸を撃って自殺してしまいます。
兄のヴィンセントとは正反対に、テオはキャリアを着実に積み上げ、パリでも有名な画商になり、素敵な妻・ヨハンナを得、愛児 ヴィンセント(兄と同じ名)も設け、順風満帆なようにみえました。でも、そのテオにしても、兄・ヴィンセントといたわりあったり、非難しあったりする、決して強くはない男でした。
いみじくも、ヴィンセントはテオに、自分の作品を「ぼくらの制作」と言っており、ヴィンセントの画業はテオとの二人三脚と称していました。当時の精神科医は、この2人のことを「共依存関係」にあると分析しました。いわく
孤立無援の画商が画家の経済的支援者であったならば、孤立無援の画家は画商の精神的支援者であった。画家は画商の脆さ、弱さを看破していた。
訳者あとがき:250P
兄、ヴィンセントの死後、テオも精神病院の御世話になるほど衰弱し、消えるようにこの世を去りました。その後、ヴィンセントの絵は、テオの妻・ヨハンナ、小ヴィンセントの努力の効で、ようやく世に知られるようになったのです。
ヴィンセントの絵が初めてパリの美術界に認められた時の批評はこうです・・・
彼の作品の本質を特徴づけているものは、過剰ということである。力の過剰、神経の過剰、表現の暴力性。事物の性格の断定的肯定、形の大胆な単純化、太陽を直視する傲慢さ、デッサンや色彩の凶暴さ、取るに足りないような技法の細部にまで、立ち現れてくるのは、ひとりの力強く、雄雄しく、勇敢な、しばしば粗野で、時には無邪気なまでに繊細な男の姿である。
179P アルベール・オーリエの記述(メルキュール・ド・フランス誌)
テオはこの記事を見て、大層喜んだとのことです。そのことをヴィンセントにも伝えたそうです。
従来発見されていたヴィンセントとテオの往復書簡にくわえ、新発見の90通あまりの書簡を丁寧に読み取り、「暖かい」目でこの不可分な兄弟の物語を綴った労作だと思います。
これを最後に、日本のブログを廃止します。
なお、tumblr.は続きます。ハンドルネーム“falseandrealultravibal”にどうぞ。
これまで協力してくれた私のテオ:松久賢二に感謝します。
2026.04.17 松久義也
