毎回のようにコミケに行く。最近は小説本を中心にして買っている。
「マンガ」では伝える事のできない心情の激しい吐露は、そもそも小説でしか表現できない。
「絵」にするとそれはとてもダサいものだ。ギャグ漫画のように客観的に激しいものはあっても
主観的な感情は小説にしかできない。それらを読み解きながら、現代が見えてこないだろうかと思っていた。
同人誌は書店売りのプロにはできない部分、そして「逃避」の部分であると知った上で。
何故なら、プロの書き手は、推敲されてしまうからだ。どの程度有名で権力を持てば推敲されなくなるかは今のところわからないが、誤字も含めて原文ママというのは同人誌でしか味わえない。
その、誰にも変えざる部分というのが読みたいと思った。
文章が上手だろうと下手だろうと、あるいはきちんとした文庫タイプになって出されていようがいまいが、そういう事はあまり面白さとは関係ない。
高校生が勢い、授業の合間に走り書きしたというものの方が、何ヶ月もかけて書かれただろう、いわゆる小説では大手、という書き手より面白かったりする。それもまた、同人誌だなと思ってしまう。
市場、特に商業としてなりたつ場所では、大抵の場合、ブランドとイメージが優先されるだろうから、上手い絵、カラー表紙、大部数、が「勝って」いくものなのだろうが。
文章の世界はそうはいかない。ゆえに、読み専は発掘が楽しい。
ただの逃避なので、おおかたの書き手はテーマを持たない。そこが商業誌と決定的に違う。
何のために、というテーマ、あるいは、それは何なのかという強烈なテーゼ、自分で、これだけは変えがたい何かだと発掘したようなものは無く、ただダラダラと乙女のはてしない妄想は続く。
それにつきあわされる人の事などは何も考えていない。彼女らはそれを「創作」と呼ぶ。
そんな事は承知の上だ。つきあいきれない妄想にも、つきあってしまえという覚悟無しには、この広い同人誌の海を渡ってはいけない、そう思っていた。
ところが、今年はたまたまなのだろうか、やや変化の兆しがあるように思われた。上手い書き手に会えたなと思っている。
おそらく、二十代ぐらいではないかと思われるが、若い世代の作品に、「なんとかしよう」という健気な遺志を見た。それは世の空気と大人達の偏見に満ちた「ヘタレ」でも「閉塞感」でもなかった。
何と表現したらいいのか。そう、それは逃避的ロマンチシズムから、思考するリアリズムへの変化と言ったらいいだろうか。
「なんとかしよう」それだけで充分に文学である。上手くやれるかどうかなどは誰もきいていないのだ。ノウハウ本ではないのだから。
私がいうところの「面白い」とは、なりふりかまわず本音を告げているかどうかだ。それは、自分自身でどう感じ、どう思っているかそのものだ。
普段、言いたくても絶対に言ってはならないと意識が抑圧している「王様はハダカじゃないか」というような一言を、物書きは書くべきだ。
堂々とそれができるのが同人誌でもある。物書きは世の中に従順な「いい子」になったら死ぬ。そう思っておいてよい。
何度も言うが、表現の自由とはセックスシーンの描写についての問題でなく、社会性がいかに言論を封じているか、「良い子」として従うべき「正しい世の中」が、性的なものも(つまり愛も死も)含めて、言ってはならないと禁じているか、それに書き手本人が気付くのかという事なのだ。
そこに、団塊の世代が見せたような、ギラギラとしてエネルギッシュな反抗心は無い。しかし、二十代は確かに、意味不明の呟きだけで殻にこもり、その隠語のみで無意識なつながりを要求するようなものから、一歩抜けようとしていた。それは、新たな「意味」の発見だと思う。その世代がヒキコモリ的な創作から、きちんと読ませるものとしての対話を取り戻し、なおかつ詩的な部分を残すというスタイルを確立すれば、同人誌文学は面白さにおいては、商業誌と何ら遜色ないものとなると私は思う。
それほどまでに、今の同人誌小説のレベルは高いのだという事を、買う側にはもっと知ってほしいと思う。
「マンガ」では伝える事のできない心情の激しい吐露は、そもそも小説でしか表現できない。
「絵」にするとそれはとてもダサいものだ。ギャグ漫画のように客観的に激しいものはあっても
主観的な感情は小説にしかできない。それらを読み解きながら、現代が見えてこないだろうかと思っていた。
同人誌は書店売りのプロにはできない部分、そして「逃避」の部分であると知った上で。
何故なら、プロの書き手は、推敲されてしまうからだ。どの程度有名で権力を持てば推敲されなくなるかは今のところわからないが、誤字も含めて原文ママというのは同人誌でしか味わえない。
その、誰にも変えざる部分というのが読みたいと思った。
文章が上手だろうと下手だろうと、あるいはきちんとした文庫タイプになって出されていようがいまいが、そういう事はあまり面白さとは関係ない。
高校生が勢い、授業の合間に走り書きしたというものの方が、何ヶ月もかけて書かれただろう、いわゆる小説では大手、という書き手より面白かったりする。それもまた、同人誌だなと思ってしまう。
市場、特に商業としてなりたつ場所では、大抵の場合、ブランドとイメージが優先されるだろうから、上手い絵、カラー表紙、大部数、が「勝って」いくものなのだろうが。
文章の世界はそうはいかない。ゆえに、読み専は発掘が楽しい。
ただの逃避なので、おおかたの書き手はテーマを持たない。そこが商業誌と決定的に違う。
何のために、というテーマ、あるいは、それは何なのかという強烈なテーゼ、自分で、これだけは変えがたい何かだと発掘したようなものは無く、ただダラダラと乙女のはてしない妄想は続く。
それにつきあわされる人の事などは何も考えていない。彼女らはそれを「創作」と呼ぶ。
そんな事は承知の上だ。つきあいきれない妄想にも、つきあってしまえという覚悟無しには、この広い同人誌の海を渡ってはいけない、そう思っていた。
ところが、今年はたまたまなのだろうか、やや変化の兆しがあるように思われた。上手い書き手に会えたなと思っている。
おそらく、二十代ぐらいではないかと思われるが、若い世代の作品に、「なんとかしよう」という健気な遺志を見た。それは世の空気と大人達の偏見に満ちた「ヘタレ」でも「閉塞感」でもなかった。
何と表現したらいいのか。そう、それは逃避的ロマンチシズムから、思考するリアリズムへの変化と言ったらいいだろうか。
「なんとかしよう」それだけで充分に文学である。上手くやれるかどうかなどは誰もきいていないのだ。ノウハウ本ではないのだから。
私がいうところの「面白い」とは、なりふりかまわず本音を告げているかどうかだ。それは、自分自身でどう感じ、どう思っているかそのものだ。
普段、言いたくても絶対に言ってはならないと意識が抑圧している「王様はハダカじゃないか」というような一言を、物書きは書くべきだ。
堂々とそれができるのが同人誌でもある。物書きは世の中に従順な「いい子」になったら死ぬ。そう思っておいてよい。
何度も言うが、表現の自由とはセックスシーンの描写についての問題でなく、社会性がいかに言論を封じているか、「良い子」として従うべき「正しい世の中」が、性的なものも(つまり愛も死も)含めて、言ってはならないと禁じているか、それに書き手本人が気付くのかという事なのだ。
そこに、団塊の世代が見せたような、ギラギラとしてエネルギッシュな反抗心は無い。しかし、二十代は確かに、意味不明の呟きだけで殻にこもり、その隠語のみで無意識なつながりを要求するようなものから、一歩抜けようとしていた。それは、新たな「意味」の発見だと思う。その世代がヒキコモリ的な創作から、きちんと読ませるものとしての対話を取り戻し、なおかつ詩的な部分を残すというスタイルを確立すれば、同人誌文学は面白さにおいては、商業誌と何ら遜色ないものとなると私は思う。
それほどまでに、今の同人誌小説のレベルは高いのだという事を、買う側にはもっと知ってほしいと思う。