「おもしろきこともなき世をおもしろく」
病床の高杉晋作はここまでを作った。下の句はちゃんとあり、「住みなすものは心なりけり」とあるが、これは看病していた野村望東尼という女性歌人のものらしい。
別の人が詠んだ上の句に、別な人が詠んだ下の句。はたして、これは高杉の句であるのか違うのか。
「連詩の愉しみ」という本の中で、ノーベル文学賞の大岡信は、オクタヴィオ・パス(メキシコの詩人)に、連詩を体験させてみたと書いている。なかなか愉快な西洋人のイジメ方だと思う。
別な人が詠んだものを受けて、別な人が作るものを、いったい誰の作品というのか。やはり、オクタヴィオ・パス氏はかなり面くらったらしい。西洋式な考え方では、戦って征服する事で、前の句は否定され、うち壊され、独立して確固たる帝国を築かなければ「作品」にはならない。前の句を思いやって受け取って、共に1つの詩になる事なんか、誰も考えつかない。自由にはできない。言いたい放題に叫んでいれば褒められる、という類いのものではないからだ。
日本では「本歌取り」「見立て」は日本文化の中に生きている。伊勢神宮は何度も建て替えられる。それでも伊勢神宮を「パクリ」「偽物」とは誰も言わないだろう。高階秀爾の「日本美術を見る眼」ではそれに詳しく触れられている。
「日本においては、同時代の仲間が集まって、それぞれの事故の個性を保ちながら共同して芸術制作を行うという連歌、連句の「座」のような芸術創造活動のかたちが、伝統的に成立していたのである。*
もちろん、西洋人の中に、全く、1つの作品をモニュメント的に残す事で自分の存在を確固たるものにしようとする方法以外の考え方をした者が皆無だったかというと、そうではないだろう。
近年ではボードリヤールはもちろん、行き過ぎるやりかたの市場原理主義がもたらす哀れな末路を説いたし、高階氏も書いておられるように、ルネサンス以降の方法論はすでに19世紀の芸術においては行き詰まっていた。
ジャポニスムが流行した時、彼らは日本文化のどこに救いを求めたのか。
直感で、西洋式とは別な永遠性について示した者にボードレールがいた。
象徴派、印象派、アーツアンドクラフツ運動、あらゆる形で、受け手が理解力によって本質を見抜き、下の句を続けるように新しい想像力を発揮していき、その「精神」を残していくやり方に、気付いた者はいたにはいたのだ。
しかし、我々がイタズラに「西洋的」と呼ぶ、近代的合理主義の支配下では、そういう人達は皆、異質で、脆弱で、反抗的で、アバンギャルドだった。
ロマン派の時代にコミケがあったら、今現在詩人と呼ばれる者の中に、参加申込書を記入していた者は必ずいたはずだ、と思えるくらいに、彼らはいわゆる「オタク」的なのだ。
腐女子的な言い方で言えば、日本人は「受」の文化である。もしも西洋人ならば、相手を征服して自分の物にする事で勝利を感じるだろう。その理屈から見たら、ベッドシーンなんかいつも戦場だ。「受け」はいつか「攻め」に転じるリバを狙って耐えるか憎むかしかない。
それを愛だと感じるためには嘘であっても「愛している」と、きちんと言葉で言わせて証明しなければ納得できないだろう。
日本的なものは違う。言葉無くして真意を汲み、共に1つの世界を築き上げるために心での対話がなされるはずだ。その意が汲み取れないならば、超アナログ的日本文化はけして理解できない。
時間と共に滅んでいくものに抵抗しながら、いかに残していくか、そればかり考えた西洋に対して、日本は常に、物の向こうにある「らしさ」、心得、基本姿勢を残そうとしてきた。
原作者が死んで、仮に別のスタッフが制作するとしても、それが「サザエさん」らしい基本姿勢を保てば、それはサザエさんだ。
「ガンダム」の偽物作品ーーでなくても、どうして1年戦争派が「ダブルオー」を嫌ったのか。それは、そこに「ガンダム道」「ガンダムの心得」「ガンダムらしいといえる基本」が貫かれていたかどうか、にあると思う。おそらく、ただモビルスーツを出してやればいい、だけではファンは納得しなかっただろう。
ところが「マクロスF」には寛容だった。何故か。マクロスは、何度シリーズを作られても、能の「型」にも近い基本が貫かれているからでないだろうか。ハズしてはいけない、作品に貫かれている共通した「型」、そのアトリビュートにも似た象徴をふまえる事で、シリーズとしての伝統を持った。
これは、パロディ商業誌でやって、更に同人誌の現場においても活動してきて確実に言える事なのだが、日本人の文化基盤に置いては、「複製品」「シュミラークル」「二次創作」は、その本質や精神論を確実に自分のものにした場合のみ本物を凌駕してもよいという資格を得るのではないだろうか。勿論、オリジナル(元ネタ)に敬意を払ったオマージュであるのか、そうでないのかに対しては、まるで警戒するようにオタクの審美眼は厳しい。型を見るところで心でつながれる文化だから。
(母親のフリをした狼に対して、どれほど子羊は警戒する事か!)
それは「攻」の文化ではなく、「受」姿勢なのだ。
もし、行き詰まった西洋的方法への打開策として、世界に対してアピールできる事があるとするならば、
作品から読み取った「心」からイマジネーションが喚起され、また新たな世界を作っていくという二次創作的な想像力の展開方法にあると思う。
「おもしろきこと」は誰かが作らねばならないだろうが、おもしろくするかどうかは、下の句が高杉をリスペクトしているか、そこに「心」があるかどうか。
合作の詩であろう。しかし死をもって完成された詩の連鎖は、他の何にも変えがたく「ここに高杉あり」と示してくれる。
更に、高杉自身は、彼の精神を受け、彼をモデルにして作られた様々な創作物によって、どんどん奉られる人物になっていくのである。
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*p231 新版 日本美術を見る眼 東と西の出会い 高階秀爾著 岩波書店
「連詩の愉しみ」 大岡信著 岩波書店
「日本人の論理構造」 板坂元 講談社現代新書
病床の高杉晋作はここまでを作った。下の句はちゃんとあり、「住みなすものは心なりけり」とあるが、これは看病していた野村望東尼という女性歌人のものらしい。
別の人が詠んだ上の句に、別な人が詠んだ下の句。はたして、これは高杉の句であるのか違うのか。
「連詩の愉しみ」という本の中で、ノーベル文学賞の大岡信は、オクタヴィオ・パス(メキシコの詩人)に、連詩を体験させてみたと書いている。なかなか愉快な西洋人のイジメ方だと思う。
別な人が詠んだものを受けて、別な人が作るものを、いったい誰の作品というのか。やはり、オクタヴィオ・パス氏はかなり面くらったらしい。西洋式な考え方では、戦って征服する事で、前の句は否定され、うち壊され、独立して確固たる帝国を築かなければ「作品」にはならない。前の句を思いやって受け取って、共に1つの詩になる事なんか、誰も考えつかない。自由にはできない。言いたい放題に叫んでいれば褒められる、という類いのものではないからだ。
日本では「本歌取り」「見立て」は日本文化の中に生きている。伊勢神宮は何度も建て替えられる。それでも伊勢神宮を「パクリ」「偽物」とは誰も言わないだろう。高階秀爾の「日本美術を見る眼」ではそれに詳しく触れられている。
「日本においては、同時代の仲間が集まって、それぞれの事故の個性を保ちながら共同して芸術制作を行うという連歌、連句の「座」のような芸術創造活動のかたちが、伝統的に成立していたのである。*
もちろん、西洋人の中に、全く、1つの作品をモニュメント的に残す事で自分の存在を確固たるものにしようとする方法以外の考え方をした者が皆無だったかというと、そうではないだろう。
近年ではボードリヤールはもちろん、行き過ぎるやりかたの市場原理主義がもたらす哀れな末路を説いたし、高階氏も書いておられるように、ルネサンス以降の方法論はすでに19世紀の芸術においては行き詰まっていた。
ジャポニスムが流行した時、彼らは日本文化のどこに救いを求めたのか。
直感で、西洋式とは別な永遠性について示した者にボードレールがいた。
象徴派、印象派、アーツアンドクラフツ運動、あらゆる形で、受け手が理解力によって本質を見抜き、下の句を続けるように新しい想像力を発揮していき、その「精神」を残していくやり方に、気付いた者はいたにはいたのだ。
しかし、我々がイタズラに「西洋的」と呼ぶ、近代的合理主義の支配下では、そういう人達は皆、異質で、脆弱で、反抗的で、アバンギャルドだった。
ロマン派の時代にコミケがあったら、今現在詩人と呼ばれる者の中に、参加申込書を記入していた者は必ずいたはずだ、と思えるくらいに、彼らはいわゆる「オタク」的なのだ。
腐女子的な言い方で言えば、日本人は「受」の文化である。もしも西洋人ならば、相手を征服して自分の物にする事で勝利を感じるだろう。その理屈から見たら、ベッドシーンなんかいつも戦場だ。「受け」はいつか「攻め」に転じるリバを狙って耐えるか憎むかしかない。
それを愛だと感じるためには嘘であっても「愛している」と、きちんと言葉で言わせて証明しなければ納得できないだろう。
日本的なものは違う。言葉無くして真意を汲み、共に1つの世界を築き上げるために心での対話がなされるはずだ。その意が汲み取れないならば、超アナログ的日本文化はけして理解できない。
時間と共に滅んでいくものに抵抗しながら、いかに残していくか、そればかり考えた西洋に対して、日本は常に、物の向こうにある「らしさ」、心得、基本姿勢を残そうとしてきた。
原作者が死んで、仮に別のスタッフが制作するとしても、それが「サザエさん」らしい基本姿勢を保てば、それはサザエさんだ。
「ガンダム」の偽物作品ーーでなくても、どうして1年戦争派が「ダブルオー」を嫌ったのか。それは、そこに「ガンダム道」「ガンダムの心得」「ガンダムらしいといえる基本」が貫かれていたかどうか、にあると思う。おそらく、ただモビルスーツを出してやればいい、だけではファンは納得しなかっただろう。
ところが「マクロスF」には寛容だった。何故か。マクロスは、何度シリーズを作られても、能の「型」にも近い基本が貫かれているからでないだろうか。ハズしてはいけない、作品に貫かれている共通した「型」、そのアトリビュートにも似た象徴をふまえる事で、シリーズとしての伝統を持った。
これは、パロディ商業誌でやって、更に同人誌の現場においても活動してきて確実に言える事なのだが、日本人の文化基盤に置いては、「複製品」「シュミラークル」「二次創作」は、その本質や精神論を確実に自分のものにした場合のみ本物を凌駕してもよいという資格を得るのではないだろうか。勿論、オリジナル(元ネタ)に敬意を払ったオマージュであるのか、そうでないのかに対しては、まるで警戒するようにオタクの審美眼は厳しい。型を見るところで心でつながれる文化だから。
(母親のフリをした狼に対して、どれほど子羊は警戒する事か!)
それは「攻」の文化ではなく、「受」姿勢なのだ。
もし、行き詰まった西洋的方法への打開策として、世界に対してアピールできる事があるとするならば、
作品から読み取った「心」からイマジネーションが喚起され、また新たな世界を作っていくという二次創作的な想像力の展開方法にあると思う。
「おもしろきこと」は誰かが作らねばならないだろうが、おもしろくするかどうかは、下の句が高杉をリスペクトしているか、そこに「心」があるかどうか。
合作の詩であろう。しかし死をもって完成された詩の連鎖は、他の何にも変えがたく「ここに高杉あり」と示してくれる。
更に、高杉自身は、彼の精神を受け、彼をモデルにして作られた様々な創作物によって、どんどん奉られる人物になっていくのである。
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*p231 新版 日本美術を見る眼 東と西の出会い 高階秀爾著 岩波書店
「連詩の愉しみ」 大岡信著 岩波書店
「日本人の論理構造」 板坂元 講談社現代新書