実るほど頭を垂れる稲穂かなと言う言葉を聞いたことがあるでしょうか?

ぼくは中学のスポーツのコーチに教えられた言葉です。そのコーチの口からこの言葉が出てきたことにはとても驚きました。年寄りのくせして背筋がピンとはって人に人としてのあり方を自分を模範として説いてくる傲慢な人です。この言葉の出会いがこのような有様なので僕はこのことわざに関して疑問を持たざるを得ません

一般的な意味としては人間もえらくなればなるほどに謙虚な姿勢が大切である的な意味です。

この言葉を用いる人の多くは社会的な人だと存じますがぼくはこの言葉が日本社会の風刺として受け取れてしまうのです。

稲は人間の養分です。人は稲を食べるために育てます。

これをこのことわざに当てはめると稲=人間 人間=社会となり、人間は社会の養分と受け取れます

前述した実るほど頭を垂れる稲穂かなと言う言葉は社会的な人が使うといいましたが社会的に実り、どれだけ頭をたれようが結局稲穂のように人に食べられるだけで実ることに稲穂側のメリットはないというわけです。

人間が養分として実る稲を要求するように社会は養分として謙虚な人を要求します。謙虚といのはときに自己犠牲の上で成り立つものだと思います

したがって個人として独立した価値観を持たず社会的な価値にこだわっている人をこの言葉は社畜よりも厳しく皮肉る言葉に感じてしまいます

この言葉は今まで社会に受けいられてきたのも養分としての人間である謙虚な人を社会が欲していたからなのでしょう

それにしてもこの言葉を聞いて稲という植物ごときのようにならんとばかりに努力する人がばかばかしくて仕方がありません

しかし人は人に礼儀やマナーを求められ擦り減り、そしてその人がえらくなると人に礼儀を求めますその連鎖によって人の中身は礼儀やマナーなどではふさがれない空洞ができるのです。そういう意味では一般的な意味であるえらくなったら人に求めず謙虚になるべきだという考え方もいいかもしれません

このことわざは偉い人の心のうちにあるべきであってこの言葉を用い人に説くことは大きく矛盾し自分にブーメランが刺さることになるでしょう