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My Quest Restart

振り返ると、肩肘張った、結構な急ぎ旅だったように思う。
木枯らし紋次郎のごと、宛がないのに何故あんなにもせかせかと歩き続けたのか。
立ち止まってみると、結局な~んにも解っちゃいないことが解った。
立ちすくむのも癪だから、もう少し歩いてみよう。

今年も気がつけば年末、あっという間の2013年だったように思う。
そして、また来年が始まる。
ふと、メビウスの環を想った。

メビウスの環

メビウスの環 (輪または帯)

Wikipediaなどから、簡単に引用すると、

”この環の数学的な特徴は、「細長い長方形の帯を一回ひねって、一方の端の表と他方の端の裏を張り合せたときにできる輪。この帯がつ くる面は表裏の区別がつけられず(単側面)、また左まわりと右まわりの区別がつけられない(向きのつ けられない面)という性質をもつ」。

文学作品においてメビウスの帯はしばしば無限の繰り返しを比喩的に表すものとして用いられる。また、メビウスの帯は1周して戻ってくると向きが逆転しているという性質を有していることから、登場人物がなんらかの経験を経て考えをあらためて過去  (あるいは元いた場所)に戻る際の比喩としてメビウスの帯が使われることもある。”

さて、みなさんは、このメビウスの環を視て何をイメージされるだろうか。
文系的な柔らか頭で眺めて欲しい。そして、改めて、今年と来年を想って欲しい。

ある機会に、仲間のシニアな方がこの図形を見てつぶやかれました。

・Aさんのつぶやき
表面だと思ってそこを走っていたら、いつのまにか会社の(または技術の)裏街道
を歩いていた、ということを象徴するための図形(おっと失礼!)(^^;;;。
その逆に、冷遇されている技術や技術者が、突然、閃いて表舞台で大活躍という
こともあります。
技術経営は、そこのところの見極めが重要だと私は考えています。

・Bさんのつぶやき
Mebiusの輪は、輪の上は 2次元の閉じた空間なので元へ戻るんですが、実世界
は、無限次元で、元へ戻ったのやら、見知らぬ荒野に来たのやら わからないと
ころが曲者ですね。
 
良いと思ってやっていることが、裏目に出ることは、この世の常である。
自分の人生においても、また国家的な選択に於いても然りである。
後になってぶつぶつ文句を垂れるだけですむこともあれば、時間の流れの中で、取り返しのつかない大きな決定の分岐点になっていることも多いだろう。
それを、後悔だけですまされるだろうか。

何かもっと確かにする方法はないのだろうか?

ギリシャ神話によると、人間と神とを分けるポイントは2つ、”不死”と、”未来が見えるか”、の2つにあるらしい。
人間は死を自覚した時から、未来に大いに関心を持つようになったらしい。
人生という一本の帯の端っこに、有無を言わせずに放り込まれて誕生し、逆の端っこで、これもまた有無を言わさぬ死で退場する。
この一本の帯の両端をひねってくっつけたのがメビウスの輪なのだとしたら、私たちが見ている過去とか未来とかは何なのだろう。
そして、どうすれば未来が、すこしでも見えるようになるのだろうか。
小生の想いは、膨大な不確実さを前に戸惑う日本の閉塞感を打ち破るため、未来を少しでも設計できる、新しい情報アーキテクチャ 2.0 の構想を描くことにある。
妄想である。


輪廻転生か、冒険の旅(Quest)か

方向が無い環・・・
行けども行けども循環する無限の繰り返しの道をメビウスの環に連想して、
私たちは彷徨う自分の人生を想い、ふと虚しさを感じる。

循環する環、デスティネーションの無い旅。
一つの旅の終わりが即新たな旅への始まりになることへの戸惑い。
日常性の循環のけだるさと、確かな方向の選択が見えない喪失感。
 
だから、解脱しろ、という教えもある。
輪をループする思考の循環から、放たれよ、と。

でも、この見果てぬ道なりを、冒険の旅ととらえていた齢月もあった。
恋に恋し、人を愛し、驚きに満ちた未知への探究に、夢中になっていたこともある。
そこでは、メビウスの環の循環などに気づきもしなかった。
 
冒険の旅で見た景色は、確かに、メビウスの環の単調な循環などではなかった。
そこには、遥かに拡がる、鮮やかな風景が視えていたのだ。
 

3次元の環は、多次元世界の一部

前のブログで垣間見た「超弦理論」の結論は、この世界は10次元なのだという。
別格の時間の次元を別に置いて、9次元の空間から構成されているという。
私たちが現実として認識している3次元空間の他に、隠された6次元があるのだという。
これは、量子力学と相対性理論の矛盾を論理的に解決するために、”神の数式”を展開した数学的な帰結らしい。
そして、この6次元は数学的にはカラビ ー ヤウ空間として表現可能らしい。
 
ということで、メビウスの環にこのカラビ ー ヤウ空間を張り付けてみた
3次元の単調なメビウスの環には、実は隠された未知(?)の6次元の空間がまとわりついているのだ。
下図は、9次元の世界を2次元の紙面に書きだしたイメージ図である。

メビウスーカラビ-ヤウ空間

殺風景な3次元のメビウスの環で見える旅路の回りには、実は、眼が眩くような6次元の多彩な事象が散りばめられているのだ。

単調なループなどでは表現され得ない、6次の自由度の、My Quest, 冒険の旅が待っている。

 
大半の読者の方は、「超弦理論」は宇宙の起源を論ずるために展開される、ミクロな物理世界の究極の素粒子論であって、それを人生論などに当てはめるなど笑止千万で、まがい物の論理の極みだ、と、全く相手にされないかもしれない。
ましてや奇妙な図のイメージを借りて論を展開するなど、正気の沙汰ではないと。

しかし、小生の妄想も、そんなにいい加減なことでもないのである。

というのは、最近の物理学者の主張には、かってなかったような広がりが出てきているらしい。

日経サイエンス10月号を引用した日経新聞記事「シュレーディンガーの鳥」は実在? 生命の中の量子世界を探せ)では、”世界はあらゆるスケールにおいて量子力学の法則に従い、古典力学はその便利な近似にすぎない。ある大きさよりも大きくなったら古典世界がカムバックすると思っている物理学者は、今やほとんどいない。われわれは、実は量子世界に住んでいるのかもしれない。”とある。
 
 

隠れた6次元空間は、情報空間か


では何故この6次元の空間が我々の五感で物理的に直接認識できないのだろうか。

それは、この空間が情報空間であること、もっと言えば脳内に展開される空間だから、と考えられる。

そして、さらに妄想を続ければ、

この6次元は、人間の身体に散りばめられた五感が脳内に映し出す5次元と、プラスする意識の1次元が、6次元の情報空間を構成しているのだ、となる。


さらに小生は、「超弦理論」が別格に置く時間次元が脳内で意識と密接に絡み合い、実質的に7次元の情報空間をなしているのではないか、とも考える。

意識と情報空間での時間が別々のではなく、お互いに密接に結合し、を構成していると考える。

3次元の物理空間、7次元の情報空間、1時限の物理時間、全部で11次元だ。

物理学においても、10次元の超弦理論が、結合定数を大きくしていくと、11次元の時空間の超重力理論になってしまうらしい。


ここまで妄想を広げると、もうとても付いていけない、という呻き(?)が聞こえそうである。

しかし、再び云いたい。小生の妄想は、そんなにいい加減なことでもないのである。

日経サイエンス3月号を引用した日経新聞記事 (社会のジレンマを量子力学で解消?)では、

”情報の獲得によって確率的な予測が変化する主観確率が量子力学現象や人間の意思決定の共通の基盤となっている可能性があり、現代物理学と、人間の意思を語る枠組みには、隠れた共通項があるのかもしれない、”、と述べている。


参照: ”揺らぐ境界 非実在が動かす実在、日経サイエンス、2013/7月号
           ”情報から生まれる 量子力学、日経サイエンス、2013/7月号
           ”Qビズム 量子力学の新解釈、日経サイエンス、2013/7月号


Tears in Heaven


さて、この6(7)次元の情報空間とは、どんな構造になっているのだろう。
メビウスの環の3次元の世界は、物理的な時間にそって、過去も未来も流れ去っていく無常の世界であった。
6次元の情報空間では、過去は切刻写像で、脳に記録(記憶)されている。
右脳的な認知系では、五感が脳内に映し出す5次元と、プラスする意識の1次元が、6次元の情報空間を構成しているのだ、と考えたが、左脳的な情報空間の切口では5W、Who(誰が) What(何を) When(いつ) Where(どこで) Why(なぜ)したのか、の5次元と意識の6次元で構成されるのかもしれない。
HOWやHow Much は、人間が獲得した技術論として、既存の認知系の次元に埋め込まれていくのだろうか。
 
さて、前のブログでも触れたように、「心はひとりじゃ生まれなかった」。
情報空間が脳内に展開されるとしても、他者との社会的な共有が必須である。

意識で拾った自分の脳に記録された写像と、外から他者の眼でビデオ撮りされた写像が合成されるとき、情報空間は完成され、実世界的になる。


以上のような情報空間の妄想をイメージ図にしたのが下図である。


情報空間


さて、愛しい人と天国で出会った時、お互いを見分けられるのだろうか・・
情報空間では、過去のシーンと現在の自分の立ち位置は、量子論的に両方が同時に揺れながら存在するのだろう。

"Tears In Heaven" は、1992年に発表されたエリック・クラプトンの楽曲である。

この曲は、事故で、4歳で他界した彼の息子の死を悼んで作られた歌である。


Would you know my name 

If I saw you in heaven 

Will it be the same 

If I saw you in heaven 

I must be strong, and carry on 

Cause I know I don't belong Here in heaven
・・・・・・