昨今は、手紙よりもメールが
身近な連絡ツールとなった。



ビジネスにおけるメールを送るのであれば

こと社内文とあらば
メールは簡潔にわかりやすい内容がもとめられる。




しかしながら、友人間ではどうだろうか?


簡潔にわかりやすいメールでは
味気ないと感じるのは私だけだろうか?




たとえば「今どこ?」

とメールがきたとしても

その質問の根拠すらわからないのに
なんで答える必要がある?とおもってしまったり



「君に似ている人をみかけたけど
渋谷にいたりしない?今どこ?」

なのか



「近くにいたら会いたいと思ったんだけど
今どこ?」

なのか



「OOちゃんから君が迷子になったって聞いたけど
今どこ?」

なのか



「帰宅が遅いじゃない。今どこ?」

なのか。


簡潔なメールでは気持ちが伝わりにくい。





笑って話していても相手の取り方では
怒っていると誤解されかねない。


だからこそ
付随する言葉が必要なのだと私はおもう。




メールとはそもそも英語で「お便り」と訳され
それは手紙にも等しい。




気軽に打てるからこそ
内容を考慮する必要があるのではないか。



短く簡潔なメールより
長いメールを送れる人が私には魅力的に見える。



ついつい文章が長くなる人は

相手に対して
誠意を見せている証でもあるとおもう。


言葉を丁寧に考えた所以の
長いメールなのだろう。




メールは気軽に打てるとはいえ
その重みを知っている者にとれば

実際、気楽なものでもないのだ。



このように考えるからこそ

誰かが自分のために
長いメールを送ってきたとしたら


私は素直に嬉しい。


その労力に感謝し、愛情を感じる。







プライベートで長いメールを受け取り

「長くて読むのが面倒だ。」

とぼやき気だるそうにメールを開く人の
心根を疑わずにはいられない。



一生懸命文章を考え、文字を打ち
長いメールを送ってくれたのだとしたら

それだけの貴重な時間を費やし

自分のために綴ってくれた
メールにのせられた言葉はその重みを増す。





「了解」「わかった」「今どこ?」

これらの簡潔なメッセージは

実際は、メッセージではなく
トランシーバーの応答のようなものだ。


それに比べ長いメールは
その人から自分へ届けられた

いわば「文字の贈り物」なのだ。



価値観は、人それぞれだから

自分が正しいというつもりは微塵もない。




ただ気持ちを理解してもらいたくて
想いを届けたくて

綴ったついつい長いメールに対して


最後に添えた長文に対するお詫びの言葉

「わかってもらおうと一生懸命書いたけど
長いメールは嫌いだったよね?」

の一言に

「あー嫌いだね。」


と簡潔な返信がくるとすれば
送り主が憤慨することは間違いない。



手紙を書く習慣のない人には
メールはただの意志伝達ツールかもしれない。


しかしながら

プライベートでのメールは
電報でもなければトランシーバーでもない。





長文メールというのは

あるときは
心を込めて相手へ送る
「形こそない価値あるギフト」であろうし


またあるときは
「自分を支えてくれるお守り」にもなる。



そう思うことができたなら

人は文明の機器と幸せに調和を保てるのではないかと
思わずにはいられないのである。