快楽をもとめたり、それにお金を使ったりすると

周りから、いい印象を持たれないことがあります。



「努力こそ美徳」「贅沢は傲慢」という考え方も

確かに一理あるのだけれど



私は「人は本来、快楽主義でいい」と思っています。




自分の成長のために仕事をする人も


誰かを支えるために仕事をする人も


おいしいものを食べたいから

そのお金を用意するために仕事をする人も


どちらも行きつくところはエピキュリアン。




それぞれが、その目的を成すことで

快楽を感じているからにすぎないわけです。




快楽とはきくと

官能的なイメージもあるのかもしれないけれど




国語辞典をひいても

「①快く楽しいこと。」とかいてあり、


人が求めてもおかしくない当たり前の欲求だと思います。





「亜砂子ちゃんは自己顕示欲が強い」


と以前、人から言われたことがあります。



誰かに自分を知ってもらいたい。

自分を認めてもらいたい。



淋しがり屋に多いと言われる、

この自己顕示欲という欲求も快楽をもとめているのでしょうね。




自己顕示欲が強いと言われたことを

否定するつもりはありません。



たしかにその通りかもしれません。





とはいえ


自分を良く見せているつもりではなく



私はむしろ欲求のままに

好きなことをやって生きています。



いい人に見せるために、快楽主義を反対なんてしません。



エピキュリアン(快楽主義者)に賛成します。




ただ相対する

ストア派(社会に貢献することが大切だと考える派)にも


賛成なのです。




社会のために役に立つことも

最終的に快楽につながると思っているから。





エピキュリアン(快楽主義者)の語源となった


古代ローマの哲学者エピキュロスが

快楽を生涯かけて追及し続けたら



結局のところ


「満足こそが贅沢」だと行きついたそうです。




その満足のために必要なものは

実際それほど多いものではなく


小さな庭、イチジクの木、少しのチーズ、2~3人の友人


エピキュロスは残しています。



このことは、

ドイツ哲学ニーチェ著「漂泊者とその影」にもありました。





快楽を求めて生きていくうちに


自分の心がその満足を知り


人は誰しも心次第で贅沢に生きられるというわけです。





人間各々満足のメーターが違うわけだから

快楽主義に生きてみて



命がつきる前に

自分にとっての贅沢に気がつけば


それは幸せな人生かもしれないと思うのでした。