Lakshmi's Emotion /らくしゅみの喜怒哀楽

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雑感、読書、ときどき猫♪

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昨日は、ヨガに行って今日は、ピラティスに行ってきました。


今日ピラティスの先生とお話したのですが、

つい最近までは、ピラティスとヨガって、ちょっと対立関係にあった感じだったのですが、

近頃は、ヨガのいいところやピラティスのいいろころをとったようなスタイルの

スタジオが出来ていたりと、ヨガとピラティスが融合されつつあるようです。


私も、以前はヨガ派だったのですが、最近は体調やマインドによって使い分けています。

同じヨガでも、とことん動きたいときはハードなヨガをやったり、

内側に入りたいときは、ゆっくり内面と向き合うヨガをしたり、

仕事の前など交感神経を刺激したいときはピラティスをするなど、

いいところ取りをしています。


時代が進んでくる中で、いろんなものが進化していくんだなぁ~と感じています。


この間、有吉佐和子さんの「一の糸」を読み終わり、久々に東野圭吾さんの

「流星の絆」を読みました。

面白くて、テンポがいいので、あっという間に読めるのですが・・・

読み終わったときに、充足感がないというか、達成がないとうか・・・

って感じを友達に話したら、ある友達は、「有吉さんがデビューしたときも

私達と同じような年齢の人たちは、太宰の方が読み応えがあるって言ってたんじゃないの~?」

というので、「えっ???私が歳をとったってこと?」と聞くと「そうなりますね~」と言っていました。


もう一人の友達は、「時代背景が違うから、あんな大変な時代と今では内容がちがってしまっても

しょうがないんじゃない?」と言っていました。



時代が変化または進化していく中で、より良いものだけが残っていってほしいと

心から願った今日この頃でした。


この間、とある雑誌を買ったら「般若経」の超訳というのがのっていました。


「般若心経」を訳したものは沢山ありますが、この方の訳が音楽のように美しく

とても心に響きました。


白取春彦さんという方が訳されたようです。

他にも「超訳ニーチェの言葉」という書籍があるそうなので、かって読んでみたいと思いました。


今回は、「般若心経」の超訳をそのまま書いてみることにします。


    

       「般若心経」


人よ、何を見ているのか。

おまえの眼には、いったい何が映っているのか。

眼の玉が見たものに脅え、驚き、戦き、心を騒がせているのか。

それほどのものが見えているとでもいうのか。


人よ、かつてのおまえは今ほど臆病ではなかった。

ふくよかで暖かい胸に抱かれていたとき、

乳房のたおやかな峰の向こうに見えていた世界は

美しく輝いていたではないか。

おまえは少しの怖れもなく、

世界に向かってほほえんでいたではないか。

あの美しき日々は、いつ遠ざかってしまったのか。

唇に与えられたものすべて美味だった日々は

どこへ消えてしまったのか。

かぐわしき花々のゆらめき、甘い息の漂い、

清らかな風の流れはいつ色あせたのか。


小さな手が

まだ何も掴めなかったあの頃、

おまえの眠りは死だった。

そして朝に新しく生まれ、

人生の一日がゆったりと流れ、また夜が来て、

おまえは死んだように眠っていた。

再び朝に生まれ、

あらゆる経験におまえの胸は歓喜していたというのに。


今のおまえはどうだ。

数えきれない悩みを抱いている。

何も正視できず、震えながら眼をそむけている。

多くの怖れ、多くの不安、後悔。

おまえの人生は苦しみに満ちている。

しかし、もう眼をつむるな。

金輪際、顔をそむけるな。

しかと視よ。何がそこにあるか、しっかりと視よ。

何が自分に見えているか、

はっきりと見えるまで見つめ続けよ。


そこに見えているのは人間か。

そこにあるのは物か。

おまえの眼に映るものは何か。

見えているものが

人であろうが物であろうが、

さらによく見つめよ。

それがつまらなく感じられるまで、

他の瑣末なものと

見分けがつかなくなるほどに見つめよ。

それが人か物か、

わからなくなるまで見つめよ。


さあ、どうだ。

何か起きたか。

何も起きない。

心が動いたか。

いや、心はかえって静かになり、

今では心すら無い状態だ。

見えているものは何か。

人であろうが物であろうが、

そこにあるものは

大きくも小さくもない。

ただ、それはそこにあるものでしかない。

あたかも、そこにあるかのように

自分の目に映るものでしかない。


だのに、なぜ今までそれをおまえは怖れていえたのか。

利害からか。妄想からか。

憎しみからか。愛着からか。

思い出からか。想像からか。

金の有無からか。

それをも見つめよ。

自分の心を、

まるで過去の汚れた遺物を

調査するかのように見つめよ。

逃げずに見つめよ。


見つめれば、、おう静かにわかるはずだ。

本当は何もなかったということが。

見えるものと自分の心を勝手ににつなげて

気持ちをいたずらに動かしていたということを。

自分が損得や勝ち負けにこだわっていたから

焦りや感情に縛られていたということを。

見えるものすべてを

自分のくだらない自尊心の物差しではかっては

勝手に評価や判断をしていたということを。

すべてを自分のものだと思い込む

利欲の根性に染まっていたということを。

つまるところ、

自分が卑しかったということを。


だから、そういう自分のすべてを捨てろ。

気持ちまで捨てろ。

そうして、

自分というものの

いっさいがっさいを捨て去れ。

ただ、命だけは残しておけ。


すると、

おまえはいまだかつて知らなかった

自由の空に飛ぶことができる。

何をすることもできる。

不可能なことは一つだにない。

すべては可能だ。できないことはない。

ただ、

悪をなせば、

昔の濁った自分がたちまちにして戻ってくる。

まずは悪でないこと、

人が必要としていることを自分でなせ。

人のために、善のために、自分を使え。

それこそが大いなる自由の空を飛ぶことだ。

そのとき、

世界は一変する。

いっさいが澄んだ静けさの中で変わる。

いっさいが静かな歓喜に満たされる。

おまえは初めて、人になる。

最近、「有吉佐和子」の小説を全巻集めようと思い、買いためています。

この「一の糸」は、モリノスさんからお借りしたものなんですが、「人形浄瑠璃」のお話でした。


「人形浄瑠璃」の戦前、戦中、戦後の三味線弾きの男性を一途に思う女性との恋物語でもあり、

「人形浄瑠璃」の時代における変化なども詳しく記されている本でもあります。


いきなり初頭から、目の見えない主人公の「茜」が登場するのですが、

これが憎い演出なんです。

目が見えないからこそ、三味線の一の糸の力強さに魅かれ、目が見えるようになったら

三味線弾きの容姿に更に魅かれていく・・・有吉佐和子ならではの演出だと私は思いました。


また、恋愛や時代背景だけではなく、芸人として、芸に打ち込み、芸に倒れる生涯をも

上手く書かれた小説だと思いました。

なるほど!と思ったのは、三味線弾きの徳兵衛のセリフで「三の糸が切れたら、二の糸で弾ける。

二の糸が切れても、一の糸で二の音を出せば出せる。そやけども、一の糸が切れたときには、

三味線(弾き)はその場で舌噛んで死ななならんのやで」というものでした。

楽器のことは何もわかりませんが、「一の糸」という本題にした理由がわかる気がしました。


「有吉佐和子」さんの作品は、結構女性の生き方や歴史を角度を変えて描いているものも多く

、この作品も、「茜」という一人の女性の生涯をドキドキしながら読ませる作品になっていると思います。


今日も、本屋さんで「有吉佐和子」の手持ちのない本を探して歩いてみようかと思います。