ゼロから企画のプロフェッショナルへの道! from 赤坂
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久しぶりに帰ってきました。

アメブロ、久しぶりに戻ってきました。


あまりマメでないのですみません。



企画の仕事として、2010年はいろいろと試行錯誤の1年でした。


ただ、それも今年はしっかりと回収するつもりで頑張ります。


今決まっているのは2月20日に『権八G-zone銀座店』さんとコラボ


実施する『日本で一番おいしいおにぎりを食べる会』。


料金設定など、あまり高額になると来られる皆さんの負担になるので


今回はベルマネジメントの主催、というより権八さんの今後の恒例行事


になるように設定していただくことで格安になりました。


詳しいご案内は明日します。


よろしくお願いします!



丸ちゃんの涙。

僕はゴルフはやらないが、友人の“東京砂漠”君や、
テレビで連日石川遼君の活躍を魅せられる度に、
自然とゴルフが身近に感じられるようになってきた。


昨夜『すぽると!』で10年ぶりに日本ツアーで優勝!
という丸山茂樹選手が表彰されているシーンが紹介され、
ギャラリーの人たちの声援の中、涙する彼の姿が感動
的に映っていた。

久しぶりに見た彼は、テレビCMで愛嬌のあった昔の
彼より少し細めになっていた。



アメリカツアーで9年間頑張ってきた丸山選手は、
思ったほど向こうでは成績が残せず、そして改めて
日本で頑張ることになった、という。

今でこそ野球の世界ではメジャーリーグで日本人
選手が活躍できる土壌が出来たが、ゴルフの世界で
向こうだけで頑張っている選手は男子では彼ぐらい
しかいなかった。女子では宮里藍がいたけれど、最近
では日本ツアーにも参加するようになった。



あの涙は、彼のこの10年の重みから流されたものだった。
他人がどんなに「9年間頑張ったね、ご苦労さん」と言って
も、彼自身が経験してきた苦労は計り知れない。


9年前、彼はもっとアメリカで活躍するイメージを持って
渡米したに違いない。

「こんなに勝てないとは・・・」
正直、そんなプレッシャーがずっと圧し掛かっていたと
思う。


結果を出せればプロとしての実績が評価される。

結果が出ないと、評価はおろか、生活も厳しくなる。

遼君も18歳であれだけの人格が養われていることには
驚嘆の何者でもないが、19歳でも今年と同じ成果がでる
保証はない。

一寸先は闇、の世界だ。

保証のない世界で生きる人たちの苦悩は、会社員では
想像できないほどプレッシャーを感じる毎日だ。

僕もそんな生き方を選んでいるのだが、苦労が多い分、
喜びはサラリーマン時代には感じられない大きなものだ。


人生は一度。
どう生きるかは、それぞれが決めることだが、順風満帆
な成績をこの9年間米国で上げていれば、丸山茂樹は日本
には帰ってこなかったし、あの涙を流すこともなかった。

彼にとってあの涙は、彼の10年間を回想させ、そして
これからに繋がる涙だ。



テレビで彼を観ながら、今の自分に巻き起こる苦労を
彼の涙のように変えていけるよう、妥協しない毎日を
過ごそうと思った。

志、半ば・・・

80年代後半、『光GENJI』が今のジャニーズ人気の柱をつくった
時代、彼等のトレードマークでもあったローラースケートの
一大ブーム期があった。


彼等がローラースケートで歌い踊るスタンスのさきがけとなった

人、本橋秀元君と出会ったのは、今年の夏だった。


彼は81年にオールアメリカンダンシング大会で優勝、その後
プロとなり、東京ディズニーランドの開園と共に、ここのパレード
などのアトラクションで中心的存在になっていた。


最初に会ったのは、お世話になっている人が主催するT会と

いう交流会だった。


彼の仲間には、東京ディズニーランドの立ち上げから苦労して

きた、イベントを支えている優秀なクリエイター達がたくさん

いた。


彼とご飯を食べに行くようになって、仲間のひとりを紹介して
くれた。そのK氏にこの年末に行う予定だった、今年で3年目
になる有楽町マリオンのの『クリスマス・サプライズ!』をお願い
する予定だった。

「東京のど真ん中で、そんなことできるなんて!
僕も関わりたいけど楽しみにしてますよ!」


結局スポンサーとの折り合いが付かず、残念ながら今年は

出来なくなったが、その報告も出来ないまま、先週の木曜日、

彼は肝臓がんでこの世を去った。


突然の報告だった。
T氏から一報をもらったとき、僕は信じられなかった。

つい最近まであんなに元気だったのに…。



僕が参加して2回目のT会のとき、彼は「少し腰が痛い」と
言っていた。
今思うと少し顔色が悪かったような気もする。
しかし、まさかそれがガンだとは全然思わなかった。
彼の若い身体でのガンの進行は早い。
ガンと知ったとき、もう余命を宣告されたそうだ。

何度も医者をたらい回しにされて、ようやく治療をしてもら
える医者を見つけたと思ったときに、様態が悪化、急死だった
そうだ。

彼は友人にも話をしていなかったそうだ。
紹介してくれたK氏も、
「最近、彼とご無沙汰しちゃっていて…。なかなか時間が
合わないんだと」と打ち合わせをしていたとき言っていた。
彼も死の2週間前に、本橋氏がガンであることを知ったそうだ。

周囲の人たちには心配を掛けるので、誰にも言っていなかった
と聞いて、本橋秀元という男は、本物のエンターテイナーである
と痛感した。

身内以外誰も知らせられなかった、ということはどれだけ
辛かったことだろう。
それを思うと本当に心が痛くなる。




「僕はね、もう一度ローラースケートをこの日本で流行らせたい
んだよ」


最後に飲んだとき、彼がそういっていたことを、1対のローラー
スケートが置いてある棺の前で手を合わせている時に思い出した。



僕の周りには、将来何をしたら良いか、“自分探し”に悩んで
いる人が多い。

彼のように自分の使命をしっかりと持っている人は、僕自身
が目指している将来を語る上で、会うと元気が出るし、お互い
成長しあえる、とても刺激になる大切な存在だった。


僕はお通夜の夜に焼香を上げに行ったが、翌日はTDLの人が
何百人も来られたという。


「彼が生きてきた証のようだった」

マリオンをお願いしようとしていた、紹介されたK氏から報告を
受けた。



享年43歳。僕よりも2つ年下である。


僕が27歳のときにこの世を去った親友も、大きな夢を持っていた。
このときも、「彼が果たせなかった目標の分まで頑張ろう」と

誓った自分がいた。


2009年末。僕にもうひとつ、新しい心の支えが出来た。



本橋さん、どうか安らかに。

あなたの分まで、僕は頑張って生きます。



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