力なく天井に向けられる彼女の瞳は完全に焦点すら合っていない
どうして私はここにいるの…
櫻井志穂、20歳
全国でも一、二を争う国立大学の二回生だ
髪は腰まである黒髪のストレートヘア
前髪は目が隠れるほど長く横一線に俗に言うぱっつん
身長は165cmと女性のなかでは高いほうかもしれない
細身のため実際の身長より高く見られることも多く
顔立ちも目はさほど大きくないとはいえ、鼻筋も通り薄めの唇が可愛いというより美人と呼ばれるような
決して一般的にモテないような容姿はしていない
しかし周りからの印象は
真面目…地味…陰キャ…
これは目を隠すほどの前髪と普段から俯き気味で猫背でいることが多いことも原因なのかもしれない
育った家庭は決して裕福とはいえないが、両親ともに優しくその愛情をたっぷりと受けてきた
周りから見れば多くが幸せ…そう思うような家庭に生まれたと言われるだろう
彼女がこの大学に進学したのは、ずっと愛してくれた両親に将来少しでも恩返しをとただただ必死に勉学に励んできた
小学生の頃は友だちも少なからずいて元気に遊び回ることもあったが
中学生になると少しずつ勉強中心の生活に変わり
少しずつ友だちも減っていった
なにかに打ち込むと周りが見えなくなりそこに集中してしまう
そんな性格も自ら友だちを遠ざけてしまったのかもしれない
クラスでは常にひとりでどんどん目立たなくなっていく
高校に入ると
「あれ…いたの?」
そんな風に蔑まれることも当たり前になっていった
それでも彼女は一生懸命勉強して
将来は男性にも負けず世の中のために両親のために
胸を張って生きる大人になるんだ
心にそう思えば友だちがいなくても力が湧いて頑張ってこれた
今日もすべての講義を真面目に受講し
校舎を後にする
キャンパスでは講義を終えた学生たちが笑顔で友だち同士はしゃいでいる
「ねえねえ、このあとどうする?」
「めちゃくちゃ美味しいケーキ屋さん見つけたんだ!」
「今日はパァーっと飲み行こうぜ!」
そんな楽しげな学生たちの間を影もなく抜けていく志穂
そんな志穂にも息抜きとしてほぼ毎日通っている喫茶店があり
そこでお気に入りの本を読みながら珈琲の香りに疲れを癒す
それが日々のなによりの楽しみになっている
からんっ…
入口の扉を開けるといつもの心地よい鈴の音
微かに鼻をくすぐる珈琲の香り
それだけで張り詰めていた気持ちが落ち着き肩が軽くなる
志穂は必ず奥の窓から離れた席に座る
奥ばったその席は自然と照明も少し暗く普通の客はほとんど選ばない
故にいつも必ずと言っていいほど空席だ
しかし志穂にはなによりその席が落ち着くのだ
窓際は外の雑音が微かに耳に入るし
街ゆく人々の視線もどうしても気になり集中できない
いつものようにその席に座ろうと踏み出すと…
そのには先客がいた
え…嘘でしょ…
志穂の楽しみが取り上げられたような気持ちになる
もちろん誰がそこに座ろうが自由だ
わかっているのに大切な宝物を奪われたような気持ちにすらなる
それでも仕方がない…
店内を見渡し少しでも落ち着ける席へと腰をおろすがどうも落ち着かない…
お気に入りの本を読んでもちっとも楽しくないのだ
あの客が帰ったらすぐにでも移動したい…
しかしとっくに珈琲を飲み終わってるのに帰ってくれない
本を読むわけでもなくスマホをいじるわけでもなく
ただ紙巻きの煙草を吸っている
吸い終わるとしばらくしてまた火をつけて
それを見ていると志穂のなかに怒りすら湧いてくる
そこは私の席よ…
もう飲み終わったならさっさと帰って…
そんな悲痛な叫びのような怒りがふつふつと湧き上がってくる
気づけば21時…閉店の時間だ
なんとその客は最後までそこにいたのだ
仕方なくレジに向かいお会計をしていると、その客が志穂の後ろに並んで待っている
あれだけ煙草を吸っていれば当たり前なのだが
強烈な煙草の臭いが後ろからしてくる
服に染み付いていや身体に染み付いてしまって体臭と混ざりあったような独特な臭い
煙草を吸わない志穂には不快そのものだ
会計をすませて振り向きざまに前髪の奥の瞳で
思わずぐっと睨みつける
そこに映るのは
髪はぐしゃぐしゃで見るからに風呂に入ってるのかと疑うほどで
無気力で力のない瞳
無精髭がさらに不潔さを強調している
背丈は志穂と同じくらいか少し高いか
年齢は…50代…
腹は見るからに大きく張り出てたるんでいるのが服の上からでもわかる
志穂にとっては最も受けつけない男性のタイプである
容姿云々ではなく、目標もなく自堕落に生きる…
それがなにより許せない
そう思わざるを得ない見た目なのだ
そんな近づきたくもない男が突然
「あ、あの…これ…忘れてますよ…」
志穂に向かってごもごもと口を開き太くゴツゴツとした手で一冊の本を差し出してくる
最初は
なに…気持ち悪い…
と思ったが目線を落とすと
志穂のお気に入りの本だ
あまりにも自分の特等席ばかりが気になって本をテーブルの上に置いたまま席を立ってしまったようだ
見るからに脂ぎった手
爪は伸びてその間は黒ずんでいる
そんな手で大切な本まで触られてしまった…
志穂の心には特等席を奪われた怒り
その風貌から伝わる臭いと不快感
最後には自分の大切な本まで触られた
男の親切な行為であるにも関わらず怒りがついに溢れてしまう
「返して!」
口数少ない志穂が声を張り上げ
男の手から本を勢いよく奪うように取り上げると
「す、すいません…」
男は申し訳なさそうにボソボソと
そんな男にそそくさと背を向け勢いよく店の扉を開けて外に出る
それでもまだどうしようもない怒りがおさまらない
いつもは猫背がちな志穂の背中が伸び
スタスタと家までの道を帰っていく…
自宅は大学近くに借りたワンルームマンション
古めだがリフォームされていて部屋は綺麗で過ごしやすい
志穂が唯一ひとりになれる空間
部屋に戻ると狭いベッドにダイブする
「もう!なんなのっ!」
「あの席は私の特等席なのに!」
「しかも別に用もないのにずっと居座って…ほんと最悪なんだけど!」
ずっと吐き出したかった感情が言葉になって吐き出される
はぁぁとため息をついて寝返りを打ち天井を眺めていると少し冷静になって
「そういえば私…あの人はただあのお店に来て好きな席に座っただけだよね…しかも帰り際に私の忘れ物に気づいて声をかけてくれた…だけ…」
そうだ
志穂の怒りはあまりにも自分勝手で理不尽なもの
しかもレジでそんな男を睨みつけ暴言にも似た言葉を吐きかけた
「でもさ…申し訳ないとは思うけどさ…臭いも臭いし…」
男を思い出すとあんなに酷い態度を取ってしまった自分を反省しつつも
どうしても素直に反省できない自分もいて
手渡された本を取り出して見つめる
脂ぎった太くてゴツゴツとした汚い手…
後ろから臭った煙草と汗や垢の混じったなんともいえない悪臭…
そんな記憶が蘇ってしまう…
しかも記憶だけではなく微かにその臭いが鼻についてくる
「え…なに…嘘でしょ…なんであの臭いがするの…」
恐る恐るお気に入りの本を鼻に近づけると…
ぷんと酸っぱいような煙草臭いような…あの臭いがその本から臭ってくる
「もうっ!ほんと最悪っ!」
志穂が気に入ってゆっくりと読み進めていた大切な本が汚されたような感覚になり
目からぽろぽろと涙が溢れて止まらなくなる
「ひくっ…ひっくっ…」
親切にしてくれたのはわかるけどやっぱり大嫌い
そんな感情が志穂の心と頭をいっぱいにする
~続く~
※最後までお読みいただきありがとうございました。
少しでも続編が気になっていただけたらそれだけで嬉しく思います。
季節の変わり目、皆様も体調など崩されぬようお身体ご自愛くださいませ。
蒼崎響心