10日10日、武蔵小山のひらつかホールで開かれた東京室内歌劇場コンサート「魅惑のスペイン歌曲Vol.2」は、奇跡的とも言える素晴らしいコンサートとなりました。本当に感動しました。丸一日経った今も、余韻に浸っています。

スペイン歌曲ならではの色彩感、リズム、陰影の中にほの光る民衆の生活や情感の種々相。また多彩な他文化の影響を受けて深まる表現の奥行きなど、スペイン歌曲は、まさに魅惑に満ち充ちています。
それらが細大漏らさず的確に表現され、見事な色彩絵図として展開したのが昨日のコンサートでした。
たとえて言うなら、宝石がぎっしり詰まった宝石箱の蓋を開けた時のように、始めから終わりに至るディテールの隅々まで、キラキラした魅惑の輝きに充ちていたのです。まさに一曲一曲が珠玉の宝石のようでした。

「どれが」と問われれば「全ての曲が」、「誰が」と問われれば「どなたの歌も」、さらに「何が」と問われれば「全てが」と答えざるを得ないほど、絶え間なく濃密で完成度が高く、その一つひとつが、個性的な輝きを放っているのです。
密度は濃くとも決して画一的ではなく、激情のほとばしりはあっても決して乱暴ではない。
描かれているテーマも、些細な日常のひとこまを題材にしたものから、聖なるものへの憧憬に満ちたもの。また、ヒターナ(ジプシー)の悲哀を嘆いたもの、慈しみに満ちた子守唄、そして定番とも言える、マハ・マホ達の色恋が織り成す心のひだ…等々、テーマも実に多種多様で、汲めど尽きない泉のように、決して涸れることがない。心地よい時間を堪能しました。
これほど完成度が高く芸術性溢れるコンサートには、滅多に出会うことは出来ません。だからこそ「奇跡的」なのです。

今回のコンサートは、「特集・支倉常長が触れた唄」との副題がつけられ、今から400年前、慶長遣欧使節団一行が触れたであろう当時のスペイン音楽が、全プログラム33曲のうち22曲も演奏されました。
その多くは、当時歌われていたスペイン民謡の旋律をベースに、近代の卓越した作曲家たちが、優れたピアノ伴奏譜を付けた曲が大半を占めますが、第二部冒頭に演奏された4曲の無伴奏のアンサンブル曲「ウプサラ歌曲集」は無伴奏だけに、当時の音楽そのものだと言えるでしょう。
常長たちが現地でキリスト教に改宗したことは明らかな史実です。ウプサラ歌曲集は当時の教会音楽の片鱗を垣間見るようなメロディとハーモニーの曲も含まれており、しかも何れも比類なき美しさでした。目を閉じて静かに聞いていると、常長たちが初めて耳にして驚嘆した様子までもが想起され、当時を偲ぶのに十分なプログラムとなりました。
遊間さん名付けて「東京室内歌劇場ウプサラ・シンガーズ」。メジャーデビューを期待したいところです!(笑)

通常、ソロの歌い手による「にわかアンサンブル」は、「俺が!私が!」で纏まりにくいもの。それがごく僅かの合わせ稽古だけで、よくぞここまでというほどに精緻で洗練されたものに仕上がっており、この4曲を聞くだけでも十分に元が取れたと思えるほどのクオリティの高さ。期せずして昔よく聴いた、キングス・シンガーズの精妙な調べを思い出しました。

アンサンブル以外の歌曲についても一つひとつ感動を書き連ねたい衝動にかられます。でも、それを始めるとどれ程の紙幅を要することでしょうか。どの曲も本当に素晴らしかったのです。
その中で一つ、溢れる涙を堪えることの出来なかった曲がありました。
それは第二部で阿部祥子さんが歌ったドルムスゴールの「お母様、私は愛を抱いて(Con anores, la mi madre)」でした。

愛を抱いて、私の母さん
愛を抱きしめて 眠ったの
そして夢を見ていたの
心が秘めていたことを
恋人が私を慰めてくれたのよ
私にはふさわしくないほど
優しかったわ

(服部洋一訳)

歌詞はたった7行という短い曲にも拘わらず、清純無垢な乙女の恋心、あたかも今まさに開かんとしている蕾のように初々しく、また微笑ましくもあり、何とも名状し難い情感を湛えている、それはそれは美しい曲です。
それが阿部さんの思いの一杯詰まった、素直で一直線な歌唱と見事に同期して、ストレートに響いて来たのです。
共鳴効果というか、強烈な増幅作用にやられました。心の中に沸々とわき上がる熱い情感。曲が進むに連れて高まる浄らかなカタルシス…。こうなるともうダメです(笑)。僅か1分程の間に、心の中で展開するドラマですね。

阿部さんに限らず、ほかのどの曲も、歌い手の声質や特性、更に性格までをも見据えたような嵌まり具合で、「選曲の妙」を如実に感じました。
これはひとえに監修者である服部洋一先生と、選曲・企画制作・コンサートアレンジの要で采配を振るった遊間郁子さんの見識の深さの賜物…。そればかりか遊間さんはアカペラ曲以外の全曲のピアノ演奏、更に当日MCまで1人でこなし、大変な作業量。本当にお疲れ様でした。そしてありがとうございました。

私はこれまでイタリアもの中心に勉強してきましたが、ちょっと寄り道してスペイン歌曲も歌いたくなりました(笑)。
本当に魅力的な世界がここには広がっていることを見せつけられた、珠玉のコンサート。素晴らしいの一語に尽きます。
昨日、息子が出演する都立杉並高校吹奏楽部の第32回定期演奏会が杉並公会堂大ホールであり、夜の部を聞いてきました。実に素晴らしいコンサートでした。

同校は吹奏楽の各種コンクールでも常に上位にランキングされる有名校。昨年の全国イベントでもグランプリを獲得しただけあって、技術的にも音楽的にも高校生離れしたクオリティの高さで、感心してしまいました。
全校生840名に対して吹奏楽部員は120名といいますから、7人に一人、各クラスに5~6人は吹奏楽部員が居るということになります。大変なことですね!

マーチングバンドの神髄である切れ味鋭い小気味よいものがあるかと思えば、情感溢れる芸術性の高い曲、濃密な数名のアンサンブル、そして踊りやパフォーマンスも入ったエンターテイメント性に満ち充ちたエネルギッシュなポップスコーナーまで、本当に良く訓練されたプログラムに大感動。
また、舞台から放散してくる皆さんのエネルギー、生き生きした表情にぐいぐい引き込まれました。
コンクール入賞やグランプリ獲得は素晴らしい事ですが、それだけが目的ではなく、皆さんが、まさに音楽する楽しさやチームワークの素晴らしさといった輪の中にいることが滲み出ていて、そこが感動のツボだったように思います。[Heart to Heart]を部のモットーにするだけのことはあります。

多感な青春時代、高校生生活を部活に打ち込み、成果をこうして発表できる彼等は本当に幸せだし、生涯にわたる大きな宝物を手に出来るのではないかと思いました。
これが無料とは、何か申し訳ないような気がします。数千円払う価値はありますね。普通の都立高校だというのがまたいい。
人間ってここまでやれるんだという実証。人間の可能性の素晴らしさを証してくれたという点で、まさに[奇跡のコンサート]でした。
息子の悌五郎もしっかりやってました。特に第二部ではEXILEばりのダンスパフォーマンス(ソロ)を披露し、とてもかっこよかった。いい学校、いいクラブ活動に入ってよかったなあと思いました。
昨年から始まった、東京室内歌劇場の「スペシャル・ウィーク」公演。今年も、去る3月13日から17日、せんがわ劇場を借り切って5演目11公演という盛り沢山な企画が繰り広げられた。私は「シャンソン・フランセーズ」「春の宵を歌う」という二つのコンサートに加え、オッフェンバックのオペレッタ「市場のかみさんたち」、A組の4公演、B組の1公演を見せていただいた。

A組はタイトルになっている「市場のかみさんたち」のキャストが、いずれも実に素晴らしかった!
歌舞伎で言う「世話物」の演目。人情噺的要素も加わって、ドタバタとテンポよく物語は進む。
両親と生き別れ孤児になった果物売りのシブレット(加藤千春)と、その恋人クルトポ(吉田伸昭)。二人の周囲をとりまく市場のかみさんたち。パリの市場の喧噪そのままに、大阪のおばちゃんよろしく、たくましく快活に生きる彼女達のビビッドな生態が浮き彫りになる。

クルトポは市場の人気者でモテモテのコックだ。魚屋のポワルタペ夫人(大津佐知子)、八百屋のマドゥ夫人(三津山和代)、八百屋のブールフォンデュ夫人(小川嘉世)、それぞれがクルトポにぞっこん。
ポワルタペ夫人は当初、「いい年して男の奪い合いなんていやらしい! 私は品行方正で表彰されたこともある!」などと、ポワルタペ夫人とマドゥ夫人の諍いの裁き役を買って出るものの、実はクルトポを気に入っているので喧嘩に参戦して、市場は大混乱となるのだった。
そんな中、クルトポとシブレットの結婚話が持ち上がり、結ばれるためには親の同意が必要と、親探しが始まる。シブレットの話から、まずはブールフォンデュ夫人が「自分こそはシブレットの親」と名乗りを上げるが、マドゥ夫人も同様に親を名乗り、市場は更に大混乱。件のポワルタペ夫人は、「親の勤めを果たさなかった!」と二人をなじるが、最後にとんでもないどんでん返しが待っているのだ。
一方、かみさんたちに終始絡むのが鼓笛隊長のラフラフラ(三村卓也)だ。彼は多額の借金を背負っていて、手当たり次第に女たちを口説き、金を貢がせようとする。しかし誰からも軽くあしらわれてしまう。ついにはシブレットにまで触手を伸ばすが、これも軽くあしらわれ、さえない色男ぶりを発揮(?)する。
果たして本当の親はだれなのか、二人は結婚できるのか。急展開するのは、シブレットが肌身離さず持っていた「父からの手紙」だった。これが唯一の手掛かりとなり、事の真相が明らかとなるのだった。
上演時間は1時間ちょっとという短いものだが、アリアあり合唱あり重唱ありで、前述のように小気味いいテンポ感とともに、ラストの大団円に向けて、凝縮された熱演が実に心地よかった。

歌い手さんごとに、順を追って見てみよう。
まず、何と言っても一番光っていたのが大津佐知子(ポワルタペ夫人)。実に達者な人だ。歌の確かさはピカ一だろう。声量もあり、メリハリある歌唱に加えて、リズム感もいい。更にお芝居が実に上手い。目の使い方も逸品で、彼女の一挙一動に観客のハートが手玉にとられているのがよくわかった。ラストに近い「お人好しよし~」の辺りでは、かつての恋人に「もう一度いっしょに暮らそう」とにじり寄る可愛い仕草が実に印象的。何度見ても可愛いと思えた。舞台であることを忘れて、好きになってしまいそうだった。ロビーでご主人を紹介された時には少しがっかりした(笑)(嘘)。
次に三津山和代(マドゥ夫人)は、一部、演技・歌唱の合間に妙な間があるのが少し気になったが、それが却って間抜けな(これは褒め言葉!)おばさんぶりをよく表していて、怪我の功名というべきか。とにかく体当たりの舞台で、抜群の存在感があった。これだけのインパクトを残せるのは大したものだと思う。何よりもマドゥ夫人に成り切ろうとしている姿勢が素晴らしい。役者でも歌い手でも、自分を投げ出してスッカラカンになることはなかなか出来ないものだ。観客は、板の上であられもない姿をさらけ出した演技によって異次元世界に誘われたいものだからだ。
もう一人のかみさん、ブールフォンデュ夫人の小川嘉世も、大奮闘。若さのせいか、「老練なかみさん」という役柄は気の毒だったが、こちらも体当たりの演技が気持ちよかった。台詞の切れがあると更にいい。歌になるときちんと声が出る人なのに、惜しい。
ラフラフラの三村卓也は声もいいし、上手い人だと思う。それにとても頭がいいという印象。ただ、舞台の手順がしっかり頭に入っていて、そつない歌唱と演技にもかかわらず、何かが足りないのだ。一言で言ってしまえば色気不足。借金のために金持ち女を口説くだけの役ではない筈だ。やはり、そこにはテノールならではの色気が欲しい。悪いヤツだとわかっていても、ついその気にさせるような、いわゆる色悪的な毒が欲しかった。頭で役を作ってしまう人が陥りがちではないだろうか。シブレットが奇しくも「あの人は悪い人なんだけど、でも、あの人のことを考えるとこの辺がきゅんとするの…」と独白する場面があるが、そう言われるに足る人物造形が必要だ。とは言え、女を口説きながらのセレナーデは美しかったし、かなりな水準をクリアーしている人だと思う。
プリマドンナ、シブレットの加藤千春は、見るからにお嬢さんチックな顔立ちと声質。四日間通してみて、頭書はソロでコロラトォーラを歌う場面など、「最後まで歌えてよかったね!」というような印象しか持てなかった。特に歌詞が会話形式になっている箇所は低音が入るので、余計に緊張させられた。それで、歌に入る前、フレーズの切れ目など、「準備してるな」という緊張感が伝わってきてヒヤヒヤドキドキ。だから「よかったね!」という感想だったのだ。役柄がどうのという前に、ちゃんと最後まで歌えるのかなと心配になった訳だ。それが千秋楽では、本番に慣れてきたせいか、格段の進化があった。役柄が板についてきたのを目撃して、本当に嬉しくなった。楽は舞台上にしつらえられた客席で見たのだが、こっちのテンションが上がったせい(?)もあってか、とても可愛いと思えた。力の抜けた歌唱でとてもよかったと思う。とにかく恋する一途な乙女になってほしい!と念願し続けただけに、最後に溜飲を下げることができた。途中、「もっとクルトポを愛して!」と心の中で何度叫んだことか(笑)。
シブレットのフィアンセ、クルトポの吉田伸昭は、手慣れたものだ。流石にキャリアを感じる。でも若さが足りないかな。キャパが100人という小さな小屋は、出演者の細かな所までがダイレクトに見えてしまう。ちょっとした目遣いや仕草、気持ちの入った程度まで、実にアリアリと見えてしまう。「あ、この人は上の空だな」とか、「人の事を考えてるな」とか、「テンポに乗れなかったな」とか、とにかく、手に取るように見えてしまう。恐ろしい舞台だ。だからこそ面白いとも言えるが、舞台の上の人は大変だ。
要所要所で出てくる警察署長の堀野浩史はこのアンサンブル中、唯一人のバス。合唱のときなどは下支えする低くて太い響きが心地よい。しかし、この人のリズム感の悪さは天下一品! 一人乗り遅れてる感、浮いている感が常にあり、また演技も「この程度でいいだろう」というような、「引き出しをひとつだけ開けました」っていうような感じが、とても安易に思えた。この役柄は権力の象徴であり、また、演出家はそれに相反するような「おきゃん」な振りを付けていたのに、その落差の面白さが十分に表現できていなかったと思う。片方で権力の権化のような硬質なキャラが造形できないと、演出意図は客席には伝わらない。堀野氏の演技・歌は何か薄くておざなりなのだ。オペラ、オペレッタよりも歌曲コンサート向きの人なのかも知れない。いや、そんなことを言ったら、歌曲の人に失礼だ。見ていて、ああすればいいのに、こうすればいいのに…と、もどかしさに苛まれた。ただ、B組を見たとき、堀野氏はやはり堀野氏だと思った。あの低音の魅力は捨てがたいものがある。
そのほかの出演者としては、野菜売りの古川尚子、帽子売りの小杉瑛、お菓子売りの植木光子がいる。それぞれ歌える人たちなのに、ソロがなかったのは気の毒だった。少人数アンサンブル。それでも合唱が大迫力だったのは、この三人の大きな功績だろう。演技の上でも、脇を固めて、物語の進行に合わせた細やかな仕草や表情を丁寧にしていて非常に好感が持てた。楽に舞台席で見たとき、古川尚子のノーブルな歌声を間近で聞けたのは幸いだった。古川の歌は先のフランスオペラコンサートでも強く印象に残った。機会があればじっくり聞かせてもらいたい歌い手だ。

以上歌い手ごとに感想を書いてきたが、制作の問題として、一つ気に入らなかったことがある。それはラスト・大団円後の幕切れが余りにもあっけなく、舞台が暗転したので、「あれ、終わったの?」と思ったことだ。通常オペラでは、これでもかこれでもかと、エンディングの余韻を楽しむかの如く二重三重に後奏が畳み込まれる。テンポ感を大切にしたと言えばそれまでだが、ただでさえ短いオペレッタなのだから、後奏のカットはやめて欲しかった。序曲の省略も右に同じだ。作曲家が、それが必要と思って作った楽曲を、偏見と独断で省略する愚は、今後は絶対に止めて欲しい。これでは余韻も糞もあったものではない。

さて、以上、A組を中心に書いてきたが、最後にB組との比較について一言、述べておきたい。
前宣伝では「男が女を演じる」B組に俄然注目が集まった。練習の途中経過についても器楽の人から「Bがいい」と聞かされていたのだが、蓋を開けてみると私の感想では、格段の差でA組に軍配があがる。B組は、演じる方も見る方も、その仕組みの面白さだけに目が行き、このオペレッタ本来の主張や面白さが、忘れ去られているように感じたのだ。舞台はそんなに甘いものではない。
また、B組のメンバーは個人技ばかりが目立って、「何のためにその役があるの?」という関係性や主題が全くと言っていいほど理解されていない。やっている方は楽しかったかも知れないが、観る方は全く楽しくなかった。これを面白いと感じる感性の人は、見る前から既に感激しているのだ。「男が女を演じる…。面白そう!」と思って劇場に足を運び、実際の舞台でもその「期待」に即してしか舞台を見ていない訳だ。何で詰まらない観劇スタンスだろう。歌舞伎を何十年も見てきた私からすれば、ちゃんちゃらおかしい。歌舞伎には女の役者はいないのは当たり前。男が女を演じるのが面白そうだと歌舞伎を見に行く人も皆無。
加えて舞台というのものは、主役・脇役の別なく、装置や器楽、演出、指揮などが渾然一体となって一つのものを作り上げて行くものだ。要するにチームワーク芸術。息が合うという言葉があるが、まさに呼吸を合わせ、皆が同じ空気を吸ってまとまった形に、えも言われぬ感動を覚えるもの。歌が中心にあるオペラ・オペレッタなら尚の事、息が合うのは本当に大切だ。そういう意味でも、A組・B組を見比べると天地ほどの開きがあった。息の合った者同士、言ってみれば、実に他愛ない荒唐無稽とも言える物語を懸命に作り上げることの素晴らしさ! その舞台の「嘘」を「嘘」と感じさせない作り込み。良いチームワークがA組には感じられたのである。
A組の4公演をつぶさに拝見して、懸命なその姿勢に言葉にできないほどの愛おしさを感じた。「ああ、素晴らしいな!」と感動の日々だった。またいつか再び、こんな熱い舞台に出会えることを楽しみに、日々の仕事に励もうと思った。