久々の読書記録です。
春から、いくつかの短編集や「ビブリオ古書堂の事件手帖」などを楽しんでいたのですが、それはブログに記録していなかっただけ。
私はスローテンポな読み方ですが、この「草原の椅子」はことのほか、読み終えるのに長くかかりました。
内容に浸り込めなかったわけではなく、その反対で、作品の至るところで立ち止まって思いめぐらすこと、考え込むことが多かったからだろうと思います。
以前ブログで「映画よりも先に原作を読む方がいい」みたいなことを書きましたが、
この作品は反対。
映画を見て、原作を読みたいと思ったのです。
原作は、映画よりも遙かに深く味わえたのです。
さて、どんな作品だったかというと、人生の岐路で考えたこと・・・と言うと、何だかうすっぺらな感じがしますが、50歳にして生きてきた道を振り返り、ゆくべき道を、死の砂漠と呼ばれるタクマラカン砂漠で考える話です。
人間男女を問わず、50歳ぐらいになると、
いろんな意味で社会批判の目も持つし、
厭世的な思いもよぎるし、
自分の仕事のことやこれからの人生のことなどを考えてくるものだと思います。
この作品の主人公の憲太郎や親友の富樫も50歳で、彼らが出会った人たちに抱く思いや世の中に感じることを、共感するだけではなく、私も自分自身のこととしてを考えてしまいました。
とりわけ、富樫氏が時折つぶやく
『心根の貧しさ』という言葉に惹きつけられました。
「律とか、道とかっちゅうもんが失くなってしもたんやなァ。人間には、これだけは守らなあかんというような道徳律とか、人間としての道とかがあるのに、それが、この日本から失くなってしもた。自分以外のものを慈しむ心というのが失くなって、自分だけの快楽、自分だけの欲望、自分だけの気持ちよさみたいなものに突き進んでいっている」と。
これは単なる社会批判や他者批判ではなく、富樫氏が見てきた悲しみや理不尽な経験の積み重ねから、ため息のように絞り出てきた言葉に思えるのです。
そりゃあ、50年程生きてきたら、嫌なやつの一人や二人、なんちゅう人やと怒りを覚えるような人との出会いは誰にもあるだろうけれど。
私自身の経験にある、なかなか許すことができず忘れることもできない、人間の根幹に関わる怒りを覚えた人に対しては、『心根の貧しさ』というこの富樫氏の言葉ほど、当を得た言葉はないように思えました。
こういう恨みや憎しみに似た感情を持たねばならない人がいること自体が苦しいことであり、どうにかしてこの者への怒りを薄めていくことはできないのだろうかと考えたこともあるのです。
ともあれ、私の心の奥底で鈍くうずくまっているこの怒りに対して、
富樫氏は『心根が貧しい』という言葉を与えてくれたのです。
これは、どう表現をしたらいいかわからなかったもやもやしたものを、「ああそうか、あんな醜い奴のことを『心根が貧しい』というんだな」とわが意を代弁してくれるものを与えてくれた気分です。
そして、この作品では、憲太郎や富樫氏が、
こういった、自分の中にある怒りや落胆から生ずる厭世感のようなものも、それでもまだかすかに残っている希望や意欲も、すべてひっくるめて己を見据え、これからどう生きるかを考える旅に出るのです。
行く先は、「空に飛ぶ鳥なく、地に走る獣なし」「死の砂漠」と呼ばれるタクマラカン砂漠。
日本列島よりも広大な砂漠で、気圧されるような自然の中でなら、生きていく方向が見えるというのでしょうか。
確かに大自然を目の前にすると、自分のちっぽけさを知ることとなり、
悩んでいるものもすべて、小さなこと・・・に思えてくるのかもしれない。
一緒に同行した貴志子さんが、砂漠にたって
「いろんなことがあったが、自分を苦しめたり、いじめたりした人たちを許そうと思った」という気持ちになったというのだから。
ということは、私もタクマラカン砂漠のような、日常離れた大自然に臨んで自分を見つめなおさなあかんのかな?
確かに、タクマラカン砂漠に限らず、大自然に包まれることは魅力的なことですが・・・。
いやいや、旅に出ずとも、
こうして本で心を揺さぶられ、
庭の花木に心を癒され、
そして、心に浮かぶことを記すブログを友として暮らす、今の生活でも
自分を見つめることはできるよなあ・・・と少し満たされた気持ちになったのです。