小林秀雄「ドストエフスキーの生活」からの引用

 

  マルタ・ブラウンの前身は全く不明だが、ドストエフスキーと相知った当時は

  ゴルキイというジャーナリストと同棲して、陰惨な窮迫した生活をしていた。

 

  ゴルキイの手を通じて、一八六四年の終わり、彼女は「世紀」の事務所で、

  英語翻訳の職を得た。病気になって、ドストエフスキーの世話で入院し、二人の

  交情は深くなった。

 

  マルタ・ブラウンは、ドストエフスキーと相知る以前、流浪と淪落との味を、

  つぶさに嘗めて来た女だったらしい。彼女の手紙によると、

 

  「或るハンガリヤの放浪者と二人で、まるで旋風のように、オーストリアと

  プロシャを駆け廻っていましたが、やがてイギリスのある冒険家と一緒になり、

 

  七ヶ月の間に、スイス、イタリイ、スペイン、南部フランスと或る時は徒歩

  或る時は馬で、朝から晩まで、休息の味も知らず旅をつづけました。

 

  マルセイユで男に別れ、私はジブラルタルへ出て、ボルドオからパリに来ました

  或るフランス人、この男は意気地のない野心家で、馬鹿も馬鹿だったが、御蔭で

  仮面舞踏会から真直ぐに、ベルギイに私を連れて行ってくれました。

 

  ベルギイからオランダに渡った、と言っても実は追放され、オランダにも

  居られなくなり、ロッテルダムの監獄を出て、一人でイギリスに来た時には、

 

  言葉もわからず一銭の蓄えもない有様でした。自殺未遂で二日間留置所で過し

  二週間あまりロンドンの浮浪人達に交じってテエムズの橋下に寝ました」

 

   こういう生活から、彼女は贋金づくりの仲間に入ったが、メソジストの

  宣教師に救われ、バルチモアから来た船員と正式に結婚した。

 

  イギリスに四年暮らした後、彼女に言わせれば「或る思いがけぬ事件」から

  トルコに逃亡する途中、ヴィエンナで検挙され、一八六二年の末、ペテルブルグ

  に還って来た。

 

   話半分に聞いても尋常な生活ではない。

 

  マルタ・ブラウンとドストエフスキーとの関係については、一八六五年正月

  の彼女の手紙からいろいろ想像してみるより他に全く手がかりはない。

 

  「肉体的に貴方を満足させる事が、出来る様になろうとなるまいと、或いは

  私達の友情に罅が入らぬよう、二人の間に精神的な調和が齎される様に

 

  なろうとなるまいと、たとへ短い間だったとはいえ、私の様な者を友達として

  愛して下さったことに対する私の感謝の念は変わりますまい。

 

  それを信じて下さい。貴方の前に出ては思い切って虚飾を捨てようとしました

  そんな決心を今迄になかったことを誓います。わがままな取りのぼせ方をお許し

 

  下さい。でも、ロシアに還って来てから二年間、不幸と嫌悪と絶望とで一杯

  だった私の心は、貴方のような沈着な我慢強い、世間を知った公平無私な人を

 

  見て、幸福に溢れているのです。現在の私は、私に対する貴方の感情が長続き

  するかしないかという様なことを全く考えてもみません。しかし、私の性格の

 

  汚らわしい一面を責めず、私の思っている私より、ずっとましな人間として

  付き合って下さった事を、金銭では贖えぬものと心に銘じておりますこと、

  どうぞお信じ下さい」

 

   恐らく読者も彼女の語るところを信ずるだろう。こういう場合、話半分

  に聞く事は多少不自然だからである。

 

  マルタ・ブラウンは、この手紙を最後に、姿を消した、少なくとも僕らの眼から

  

  

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  前半の半端じゃない破天荒な生活と後半の真摯誠実な手紙にギャップがある。

  そこがおもしろい。

  マルタ・ブラウンさんという人、考えてしまう。