「逍遥遊」篇 森三樹三郎「老子莊子」
逍遥遊とは、あてどもなく、さまよい遊ぶことである。
『詩経』の清人の詩に「河の上(ほとり)に逍遥す」とあるのが、
その語の出典である。
九万里の上空をとぶ大鵬のように、何ものにもとらわれることなく、
自由の境地に遊ぶ莊子の心境を述べたものである。
「北冥に魚あり、その名を鯤となす。鯤の大いさは、その幾千里なるかを知らざる
なり。化して鳥となる。その名を鵬となす。鵬の背は、その幾千里なるかを知ら
ざるなり、怒りて飛ぶに、その翼は垂天の雲のごとし。
この鳥や、海動けば、即ちまさに南冥に徒(うつ)らんとす。
南冥とは天池なり。
野馬や、塵埃や、生物の息をもって相吹くや、天の蒼蒼たるは、それ正色なるや
それ遠くして至極するところ無きや。その下を視るや、またかくのごとくならん
のみ」
北のはての暗い海にすむ魚がいる。その名を鯤という。鯤の大きさは幾千里とも
測りしれない。それはやがて化身して鳥となり、その名を鵬という。
鵬の背のひろさは、幾千里とも測りしれないものがある。ひとたび、
ふるいたって羽ばたけば、その翼は天空にたれこめる雲のようにみえる。
この鳥は、やがて大海が嵐にわきかえるとみるや、南のはての暗い海をさして
移ろうとする。この南のはての暗い海こそ、世に天池とよばれるものである。
地上には野馬(かげろう)がゆらぎたち、塵埃(ちり)がたちこめ、さまざまな
生物が息づいているのに、空は青一色にみえる。あの青々として色は、天そのも
のの本来の色なのであろうか。それとも遠くはてしないため、あのように見える
のであろうか。おそらく後者であろう。とすれば、あの大鵬が下界を見下ろした
場合にも、やはり青一色に見えているに違いない。
はるかなる上空をかける大鵬の目からみれば、この地上の小さな差別の姿は
すべて消え去り、ただ青一色にみえるだけである。無限の高さから見れば、
すべての相対差別は消失する。
ここに万物斉同、絶対無差別の立場が暗示されている。
ー 宇宙飛行士は言った *地球は青かった* と
我々もその映像を見る
が あの歴史的瞬間にこの莊子の『万物斉同』の思想をすぐに思い浮かべ
連想した者如何?