漢語の詩とは   吉川幸次郎『漱石詩注』

 

 ー 詩は直感の言語である、という定義があるするならば、おそらくそれは正しい

   しかし漢語の詩に関する限り、思索を排除した直感のみでは、充実した詩を

   得難い。事柄はおそらく、漢語の本来持つ性質と、関係している。

 

   漢語は、簡潔、ということが、その性質の一つであると普通言われるように、

   飛躍の多い直感的な言語で、そもそもある。

   詩の言語となる漢語は、ことにそうである。

 

   ということは、それだけに、簡潔の裏に、あるいは簡潔の前提として、

   思索の熟慮を蔵しなければ、飛躍は充実した飛躍とならない、と言うことで

   ある。むろん詩としてまず必要なのは、一読して、飛躍の爽快さを感ずること   

 

   である。しかし再読して、飛躍の前提となった熟慮を追跡し得るものでなけれ

   ば、よい詩にならない。

   漢語の詩の本家である中国の詩は、常にこの方向にある。

 

   必ずしも大家の詩ばかりではない。そのおおむねがそうである。

   単に「風雲月露」の美しさを、感覚的に捉え、詠嘆するだけではいけない。

   花が散る、日が落ちる、そこに、人間の運命なり使命への関心が、反映しなけ

 

   ればならない。もしそうでなければ、飛躍と見えるものは、単なる粗笨な豪語

   あるいは軽佻浮薄な機智となって、空虚な音声をつらねるにすぎない。

 

 

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  「飛躍」、、、、、!

  そして その根拠となる「熟慮」、、、、、! 

  「単に美しさを感覚的にとらえ、詠嘆するだけではいけない」

 

  そこに「人生・人間の運命」を「飛躍」と「熟慮」をもってからめていかなけれ

  ばならない。そうすることによって充実した詩が生まれる。「快感」を感じられる

 

  漢語漢字は ひらがなやアルファベットと違って一文字に意味を蔵している

  この特徴を「深く」知らなければならない !

 

 

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  それにしても 夏目漱石の漢文に対する「自負」は並大抵ではない!

  日露戦争の功績で「軍神」となった国民の英雄広瀬中佐の漢詩を「侮蔑」

  し、また、当時の一般が名文の模範とした頼山陽の漢文を「だれていて

  厭味」といい、ひとびとが軽蔑しがちな荻生徂徠の文章に傾倒、とは