無題 大正五年八月十四日夜 夏目漱石
幽居 正に解す酒中の忙
華髪「白髪」 何んぞ須(もち)いん酔狂に住むを
座に詩僧有りて 閑に句を拈(ねん)し
門に俗客無くして 静かに香を焚く
花間の宿鳥 朝露を振い
柳外の帰牛 夕陽を帯ぶ
所に随い縁に随いて清興足る
江村の日月 老来長し
ー 漢詩は、夏目氏の文学において、相当の比重を占める。おそらくは俳句よりも
より多くの比重を占める。少なくともんその自覚においては、そうである。
明治の時代、漢詩はなお甚だ多くの作者をもった。
江戸時代の漢学が、単に中国人の詩文を受動的に読むのに満足せず、みずから漢
語による詩文の制作を、任務の必須の部分としたのの、延長としてである。
あるいは量的には、マスコミの発達に応じて、江戸時代以上の盛況にあるように
さえ見えた。また質的にも、久しく閉ざされていた中国との直接の接触の開始
あるいは西洋文学との接触によって、何ほどかの変化を示そうとした。
ー 早熟の天才の嗜好と見識は、この世界においても特異であり、当時の一般が
名文の模範とした頼山陽の漢文を「だれていて厭味」だとし、人々が軽蔑しが
ちな荻生徂徠の文章に、傾倒した。
ー 専門家の眼を見晴らせるに充分である
写本でしか伝わらないはずの徂徠の著述「けん園十筆」を「むやみに写し取る」
ため、湯島聖堂の東京書籍館へ、十代の少年が、せっせと通ったというのである
ー 太平洋戦争中の軍人のごとく、漢詩の韻律法を心得ぬのみならず、そもそも漢語
の語法に全然無知であり、ただむやみに漢字を羅列して、日本人の詩はこれでいい
とうそぶくような、無神経無作法な人物で、先生はもとよりなかった。
ー 「艇長の遺書と中佐の詩」に見えた海軍中佐広瀬武夫の詩への侮蔑は、より悪い
「詩」が、やがて出現すべき事態への予見とおそれとを、蔵しているかも知れない
『漱石詩注』吉川幸次郎 著
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この詩は大正五年八月十四日から、十一月二十日まで、つまり十二月九日の
永眠の二十日前まで、百日の間に連続して作られたものの第一番目のもの
後半の四行 漢詩のまさに醍醐味
最初の二行の「対」の素晴らしさ 花に柳 鳥に牛 花と鳥は内 柳と牛は外
それに朝露に夕陽
花間の宿鳥 朝露を振い 花の咲く庭を縄張りにしている鳥たちが朝露を
はらい
柳外の帰牛 夕陽を帯ぶ 野原に放していた牛たちは帰ってきた 牛たち
の背には夕陽が当たっている
所に随い縁に随いて清興足る このように それぞれの場所や時間に清らか
な趣味が充溢している
江村の日月 老来長し 川沿いの村での日々は 老人になってからます
ます長閑でいる