祖母の話 | 梯子ダルマ オフィシャろうブログ

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ラジオネーム:梯子ダルマとして深夜ラジオにメールを送っていた、現在放送作家として働く26歳の男が書くブログです。

思ったことを書いて、賛同・誹謗中傷などの反応がきて、コメントがきっかけで会話をしたり、そんな交流が嬉しいです。

27日に祖母が亡くなった。


急、ではなく。

既に入院もしていて、年始に行った時は話もできたけど、前日には寝たきりだった。


朝に危篤の連絡が来て、担当している仕事の先輩5人ほどに事情を説明。正直、その日は仕事がいっぱいいっぱいで、パンク気味。後から考えれば「頑張り過ぎないように」と、最後のお年玉をもらえたような。


家族は各々仕事を切り上げ、一度家に集まり、車で出発の予定。自分は職場から直接病院へ向かうことに。


とはいえ、「流石にこれだけは」という仕事もあり、途中のマンガ喫茶でチマチマとキーボードをいじる。


「先ほど呼吸が止まったと連絡が」


漫喫のリクライニングシートで、父からのLINEを受信。正直なところ、どういう意味か分からなかった。一度呼吸が止まってしまったくらい、危険な状況だよ、ということ?それとも、もう。だとしたら、こんな姿勢で見ていい連絡ではないが。


その後、急いで病院に入った僕の頭には「もしかしたらまだ看取れるかもな」「後から遅れて来る家族に『今、亡くなりました』と僕が連絡をしなきゃいけない、なんてことにもなるかもしれないな」なんて考えもあったりしたのだが、重々しい扉の先にあった、目を腫らした叔母の顔と、やけに静かな病室で眠る祖母の化粧した顔を見た瞬間に、不謹慎な徒労をただただ恥じるばかりだった。ちょうど僕が、狭い半個室で薄められたコーラを紙コップに注いで飲んでいる間に、祖母は亡くなっていた。


家族が来るまでの間、部屋で2人きりになったりもした。どうやったって上下に動いているようにしか見えない掛け布団を眺めながら、鎖骨まで泣く。オナラをしてみたりもしたが、笑ってはくれなかった。こんなに面白いのに。


悲しさもあったが、悔しさもあった。仕事で成功もしていないし。まだお年玉なんか貰っちゃったりして。言わないだけで、ひ孫だって見たかったかも。





遅れて家族がやって来た。

亡くなった母親を見る父の顔を見て、いつか僕より先に死んでしまうかもしれない僕の母の顔を見て、また下唇を噛みしめる。


祖父が亡くなった時もそうだが、僕の父は泣かない。母も「涙を見たことがない」という。こんなに頼もしい男も、母親が亡くなれば泣いてしまうだろうと、そんな顔を見ては僕の中で不可侵だった“父の幻想”が崩れ去ってしまうだろうと、恐る恐る顔を覗いたが、優しく祖母を見下ろしているだけだった。その後、やけに長い“会社への電話”で席を外していたが、それも本当に電話だった気もする。


臨終の時間を聞いて「渋滞してなくても、間に合わなかったね」とこぼす母の言葉に、胸を刺された。なぜなら僕なら「間に合った」からだ。怒られたくない、トラブルが面倒くさい。小さな保身のために途中でマンガ喫茶に立ち寄り、ダラダラと仕事をしていたせいで、その瞬間、側に居れなかった。急げば、間に合ったのだ。本当ならば。人間なんてこんなものかもしれないが、生涯忘れないだろう。自宅最寄り駅でカエルの看板を見るたびに、きっと思い出す。死ぬまで自分は自分が嫌いなのだ。




遺影の話になり、新たな発見があった。最近は画像を加工してイメージ通りの服装をさせたり、しっかり正面を向いたものにするなど修正をすることは知っていたが祖父の時の遺影は、元々は赤ん坊の僕を抱いていた写真だったらしい。


どこかの誰かがPCの前で、フォトショやらイラレやらで幼い僕の存在を抹消し、お金を稼いでいたわけだ。あの笑顔が自分に向けられているように感じたのも、あながち間違いではなかったみたい。実際、胸元に居たのだから。




先ほど反省したばかりなのに、結局自分はすぐまた明日の仕事のために東京へ帰り、性懲りも無くマンガ喫茶で資料作り。眠れないのは、仕事のせいではなかった気もする。


翌日、ヘロヘロのまま朝から会議を終え、次の会議場所まで歩いていたところで、私立恵比寿中学の松野莉奈さん死去のニュースを知る。また、死んでしまった。また。もう。


いやいや、そんなに占めてたんかい、と驚くほどに。心がボッカリ凹んでしまう。胃の下の奥の下が痛い。


18歳。18歳って。

たしか、祖母は83歳だったかな。


死ぬんだよね、人。

ドラマとか、映画だけだと思ってたけど。



なんか、ダメだなぁ。

もうね。なんかね。


何してんだろうなぁ。

いま何してる?

明日は何すんだろう。




いつだって、割と簡単に、「今、線路に飛び込んだら」なんて思う。思うよね?死にたいわけじゃないけど。授業中に「大声出したらどうなるかしら」に近い。授業中。


授業。大学、え~、大学生だった、ね。去年は。で、1年経ったわけで。


で、えー、なんか。ね。もう。1年。


ほんとに、もう、ちょっと文章のオチの付け方が分からないので、終わり。


おばあちゃん、今までありがとう。

今後とも、よろしくお願いします。


久々に会ったおじいちゃんに、今や僕がオシャレ丸メガネかけてることとか、10年分の諸々、教えてあげてください。オナラの件は内緒で。





※追記


ようやく葬儀を終える。


祖父の時、中学生の自分には閻魔様の地獄の門のようにも感じた火葬場が今ではとても小さく感じ、自分の変化を、時間の経過を痛感します。


両親が決めたとのことで、祖母の遺影も、僕ら孫の隣で笑う写真になっていました。例のごとく、僕の右肩は画角選抜入りできませんでしたが。打倒イラレ。打倒フォトショ。遺影にツーショットを使われるくらい、仲の良い人を作ってやるんだから!


「いつだって孫を自慢してた」「幸せだったと思うよ」なんて、親戚のおばちゃんから言われちゃって。ねぇ。もう、ほんとに。やめてください。僕だけじゃん。泣いてばっかり。


棺を閉める時に父は、祖父の時と同じように、小さく「ありがとうな」とつぶやきました。つぶやくだけでした。こんな男には到底なれないな、と思います。声も震えず、ちゃんと喪主。自分の人生と同じ長さだけある母との思い出に、僕なら溺れてしまうでしょう。


納棺では泣きませんでしたが、火葬場からの移動のマイクロバス、遺骨を抱える父の隣に座った時には、マスクをしておいてよかった、と思いました。贅沢を言えば、サングラスも欲しかったですが。




明日から、これまでと全く同じ“日常生活”。残酷だなぁと思います。テレビを観て、ラジオを聴いて、友達と話して笑いながら、帰り道で、ふと思い出す。




故人について、1番最初に忘れてしまうのは「声」なのだそうです。顔を、手のシワを、クセを思い出せても、声は忘れてしまう。正直、祖父の声は思い出せません。


ウチの父は異常なほどの無口で、そのせいもあってか、自分は話好きな性格になりました。喪主の挨拶で、周囲に響かせた父の大きな敬語は、23年生きてきても、正直ほとんど聞いたことのない声で。変な感じでした。この調子だと、父の声は、僕なら2日で忘れてしまうかも。




「仕方ないよ」と母は言ってくれましたが、せめて、もう少し仕事のいい報告をしたかったです。結構、悔しい。


ラジオ。そんな儚いものを届けている。僕の“今”のきっかけは、祖父の遺品のラジカセです。祖父の声は思い出せませんが、祖父から色んな声を貰いました。


記憶力の悪い“耳”ですが、逆に、とっても、心の入口だったりすると思います。言葉や声には、物理学的な振動だけでなく、温度が灯ってる。


深夜高速とか聴きながら書いてるので、ちょっと、後から読むと恥ずかしい文章かも。追記前も、既にちょっと恥ずかしいですが。まぁでも、こういう時ぐらい、ね。気持ちをラミネート加工しておくのも、ブログの役割です。


もう死んじゃったけど、とにかく、生きていて、よかったです。よかった。ありがとう。