アカンかったらゴメンやえ
Amebaでブログを始めよう!
1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 最初次のページへ >>

以前の記事から何を書こうとしていたか考える

一年ぶりくらいに開いてみると大木サンガを考えるとかいう恐ろしい記事でした。

あの後に一体どんな熱で何を書こうとしていたのか、今の自分にはわかりません。

ただ書こうとしていたのは

・バドゥという選択肢はどう悪かったのか

・川勝という監督は京都に何を残したのか

です

結果だけ言うとバドゥの成績は勝ち点100、100得点という公約には程遠く

彼は18試合試合が経過したところで解任となりました。

18試合の内容は勝ち点26p 7勝5分6敗 24得点25失点と微妙なものでした。

ここで注目したいのは彼の平均勝ち点が1.44という数字であったことです。

何が悪かったか?ということですが我々(フロントも含め)は大木サッカーの上にプラスとなるものを持ち込んで、今あるベースを軸に戦ってくれる。そう信じていたことです。

この方の招聘には色々とあったようですが、一番の要因は継続を望み監督を選んだのだから継続をできる監督がきたものだと思ってた。これが全てです。

 

バドゥの後任は森下コーチが代行となり2試合を指揮。

未だ記憶に残る熊本戦などを1勝1分の成績で平均勝ち点2.00で終えます。

若手が躍動した内容に「もう森下でいいんじゃないか?」と

某巨大掲示板で京都サポがそんな話をしていて磐田サポが「止めろ、崩壊すんぞ」とか書き込んでいたころに新監督として川勝監督の就任が発表されます。

最近(当時)は解説者としておなじみだった彼の久々の現場復帰でした。

このあたりの経緯は色々語られていますが苦境にお願いして来ていただいたようで、まあ確かに火中の栗を拾わせようとしているのは目に見えていました。

が、川勝監督は火中の栗を拾うことに失敗し、京都はPO進出を逃します。

22試合を戦った彼の成績は勝ち点30 6勝12分4敗 28得点25失点というものでした。

平均勝ち点は1.36、これバドゥより下な訳です。

 

最早うろ覚えなので書いてても怪しいですが、監督に就任した彼が行ったのは守備組織の組み直しでした。

ですが私の目にはそれは成功したようには見えませんでした。

記憶の中にあるのは低く引いたDFラインと身を投げ出すことでブロックに入る中盤。縦ラインでゾーンが決まっていたのではないかという守備です。

その一方、大黒という強力な武器を生かすために攻撃はポゼッションからカウンター主流に変わった記憶があります。

ただひどく引いたDFラインとボールを奪う、ボールを運ぶボランチに苦労し、そのポジションには期待の若手ドリブラーが収まりました。

結果彼はボランチ、SBとポジションを移動し、ただ責任感からくる献身的な守備と推進力をチームの安定性のためにプレーします

その一方で前線はボールを運ぶ、相手のDFラインを下げさせるという強力な武器を失い、「大黒さん何とかしてください」と周りを見ずにすべてを解決してくれる戦術大黒が全てを解決していくのでした。

この大黒という選手は凄まじく、元代表のベテランFWが時にDFラインに戻り守備をしたかと思うと中盤で組み立てに参加し、サイドでクロスを上げ、ゴール前で相手を翻弄し、ゴールを重ねていきます。

この戦術大黒により京都の至宝とまで言われた若者は武者修行の旅に出て降格を経験します。

一方中盤でボールを運ぶ選手の解決策として神戸で出場機会に恵まれていなかった選手をJSPから獲得しましたが、この選手は経験していたはずなのにJ2のスペースがないサッカーに向いていなかったのか決定的なミスを繰り返し、挙句自身のミスで貴重な勝ち点を失った試合で「まだ勝ち点とか気にする時期じゃないし」などと終盤戦に口にヘイトの対象となったのでした。

 

結論を言うと川勝という監督は途中からチームを作るには向いておらず、最初に手を付けた守備の構築という目的も果たせなかった、ということです。ボール奪取の位置と洗練されているわけでもないドン引きのDFラインは失点を止めることはできませんでした。

あるいは彼が望むような中盤の軸がいればまた違ったのかも知れませんが、当時の京都フロントにそのようなツテもコネもなかったのです。

軸となる守備が機能せねば攻撃も物足りないものとなります。

彼がもたらしたのは若手への「自分がやらねば」という責任感の強烈な植え付けと、一部選手の戦術幅の向上であったと思います。

まあ結果論ではありますが、翌年のチームを見ていると守備力の向上には貢献していたようですが

 

結局、大木時代を振り返る羽目に⑥終わり

まさか6回にわたって書くことになるとは。これでも色々削ったんだよ。
途中で消えてる文章はないはずだ。たぶん、きっと……

さて倉貫だが若手が多かった時期に一度崩れると戻らないチームにゲームを落ち着かせることができるベテランを求める声は多かった。
そして彼がこの仕事を務めたわけでる。
ゲームメイク、味方を助けるプレー、重心が前にかかりになりがちなチームのバランス調整、
などを助けてくれた倉貫だが攻撃に関しては物足りないものがあった。
なら守備はよかったかというと守備のバランスは取れるのだが彼は守備の選手でもない。
相手の嫌な場所を突き、チームのギアの緩急を操りベテランらしい老獪なプレーを披露するのだが攻守のつなぎ役にはなれたがエンジンにはなれなかった。
彼の周りを秋本が護衛機として抜かれないために援護する。
そしてここでペラペラの守備力がさらに低下するのだった。
それでも中盤の守備力は少し上がっていた。

ただここを抜かれてもSBからCBに入った酒井の俊足で綱渡り的ながらも抑えていたが、ここが組立の得意な染谷だと結構抜かれていた。
どちらが悪い選手というわけではないが安藤の負傷で入った下畠との連携もよくなかったのか
稚拙な守備の綻びを何度か見せ、結果としてそれは2年連続のPO敗退に繋がっていった。
国立でのPO前あたりからでそれまで好調だった下畠が外れて行った。
その理由も結局は中盤で倉貫を使うしかなかったことと、
倉貫より攻守に動ける中山が本調子まで持って来られなかったこと。
左で攻撃を作れる人間がおらず右の安藤を出す以外の選択肢がなかったことなどだ。

その結果はいつも以上に勝たなければいけないところで勝負に行けない、攻撃的に見て攻めきれないプレスは速いがフィニッシュまでの速度も怖さいという散々なもんだった。
理由は単純に駒不足とバランスの悪さとなった。
ダラダラとかいて何がしたかったかと言えば、大木が生んだクローズという弱者が強者に勝つためにはという発想から生まれたサッカーは間違ってはいないしリアリストの発想だと思う。

だが大木が京都で展開したそれはチキタカでもゲーゲンプレスでもそれらの亜流でもなく大木スタイルという瞬間を繋ぎ続けることで生まれる
そこそこの強者が弱者の戦術を起点とした戦術を駆使し他を圧倒するという非常に矛盾したものだった。

理想はバルサみたいにボール支配で圧倒できることだった。
でも実際には技巧が上手いだけで個や全てで相手を上回っている訳でもなかった。
そういう中でDF力の低い選手を並べてどうなったのか?
バルサがチキタカに縛られて自らを自らの奴隷としたバルサと同じように京都は2011年の天皇杯準優勝、若手の躍進、面白いサッカーをするというあの年に縛られ続けた。
運動量で技術を帳消ししボールの出処を潰すようなチームに弱く、
J1昇格後を考えて「昇格後を見据えた自分たちのサッカー
という呪いがかけられたチームには滅法強かった。
ただ全体のバランスがあまりに悪かった。
結局これが2年間繰り返され、肝心な試合で自滅したわけだ。
そういう無茶なサッカーを続けた3年間だった。
あの3年間はなんだったのか。
楽しかったか?
辛いことも色々あっただろう。いい試合も多かった。
でもそれはサンガが強かったからではなく、強さを求めるのではなく相手との技術差に酔っただ試合だ。
そしてみんな「あの日の続き」という夢を見続けた3年間だった。
「あの日」が2011年の12月29日だったのか、それとも1月1日に果たせなかった夢か。
2年目の徳島戦でも最終節で自動昇格を逃したあの日でも、
3年目の開幕戦か東緑戦でも千葉戦でもいい。
とにかく「あの日の続き」が果たされること、
「あの日」がまた再現されることを、国立で、泣き崩れるまで信じ見続けた。
呪縛というものでなく、見果てぬ夢、取り返せないあの日を追い続けたわけだ。
そしてそれは未だに続いている。
敗北の記憶はいつまでも残る。それを塗り替えてくれるほどの勝利はまだない。

結局、大木時代を振り返る羽目に⑤

総括って大変だよね。たいして推敲せずにダラダラと書いてるから大変な長文になってきた。


攻撃は前回の記事で良いして守備はどうだったろうか。
京都の攻守のスイッチは相手ボールホルダーにハイプレスを仕掛けるところから始まっていた。
この局面で技術的に上だった京都の選手は上手くボールを狩り、それを攻撃に繋げる
攻撃的な守備、攻守の切り替えの速さから生まれるショートカウンターが大木サッカーの生命線だった。
ところで相手がこのハイプレスをかわすと密集地帯を形成しているので
京都陣内にはスペースがあるのは何度も出てきた話です。
このスペースを埋めていたのが秋本。彼一人がこのスペースを埋めていた。
正確言うと全員が守備の意識を持っているし
DFラインもそこをカバーするのだが中盤で守備を仕事とする選手が秋本一人しかいない。
見た目が攻撃的なのに大木サンガが非常に受け身になる理由はここだ。
もっともそれは大木戦術の発想からするとおかしなことでもないのだが
普通に考えれば中盤で守備をやる選手が一人か二人しかいない訳で、
これは明らかに無理があるしウィークポイントだった。
そもそも技巧や個人のあらゆる局面で個の力が勝るわけでもないのに
個の力があることが前提のサッカーだったのがおかしい。
技巧派のサッカースタイルを支えていたのは一番足技がないと見られていた走ることに長けた献身的な選手というのが皮肉さを感じはする。
まあ同様の例など幾つもあるわけで技巧派を支えるのはいつだって汗をかく献身的な選手だ。
昔アンチェロッティーが率いたミランで中盤より前は技巧派で固められた時期がある。
あの時チームを支え続けたのは足技がないだとか荒々しいだけで美しくないとか言われ続けたガットゥーゾとアンブロジーニだ。
とはいえJの足技がないとは比べ物にならないぐらい普通に上手かったけど。
現在アンチェロッティーはレアルマドリードを率いているがこのチームではイスコという技巧派の天才がこの役割を担うので相手からすると堪ったものではない。

最後に話をサンガに戻すがシーズンの終盤にはボランチに倉貫が名を連ねることとなる。
これも横谷という前で体を貼れる選手がFWの位置に入ったおかげだ。
横谷が最前線にいることによって京都の攻撃に若干バリエーションが生まれた。
過去2シーズンあまりなかったロングボールいわゆる放り込みも見られることとなる。

喜べ。次回で大木編は終わりだ

結局、大木時代を振り返る羽目に④

さて随分と更新が空いてしまった。だが以前に放置していた時間よりはマシだろう。

前回無い頭を絞って自分になりに大木サッカーがなぜ苦戦したのか説明を考えたところ
結論は「押し込む力の不足」というどこのチームにも当てはまる曖昧な答えだった。
前述では、大木3年目に横谷の登場でこの辺りの事情は少し変わったと記した。
……はずだ。
だがここで別の問題が発生する。
本来中盤で守備と攻撃を担い構成力を増す予定で獲得した選手がトップの位置にいるので押し上げる時間は稼げるようになったもの、他に中盤で幹になれる駒がいなかった。
あの時に一番必要だったものは何か?
大木サンガで重要だった選手は誰かとサポに聞いてみよう。それぞれがそれぞれの選手の名前を挙げるだろう。私が思う一番重要だった選手は秋本です。

少し遠回りをしながら話を進める。
まずサンガの攻撃の組み立てだ。
しつこいくらい何度も言うが大木サンガ問題点として工藤を止めてしまえばショートカウンターもパスのスピードもありとあらゆる推進力が低下するというのがあった。
DFラインが攻撃参加するなど別に珍しいことではないが、結局ゲームは中盤が作り出す。ここを抑えてスペースを埋めてしまえばパスは横に回る。
そこで中盤より下のDFラインに攻撃参加ではなく、密集地帯を避けてゲームを作れる選手が必要になる。
そういうこともあり両SB、特に工藤に近い右SBが求められたのは守備力より突破力。ディフェンダーというよりアタッカーだった。
そして工藤を補助し彼以外から組立に参加できることが望まれた。
結局相手からするとここの対策も中盤と同じ対策で済むわけで、それ故にCBが組立に参加したり時にはリズムを変えるフィードなどが求められたわけだが何故だかそういったCBの攻撃参加は極端に少なかった。
特にCBが直接的な引き金となるフィードやビルドは得意な森下が抜けて以降、効果的なものはあまりなかった。
(代わりによく見かけたのは停滞した前線にイライラしたのかバヤリッツァが怒りのドリブル突破を始めるシーンだ)
終始京都のスペースを埋め続けていれば勝てるわけでもないのでその辺はある程度の折り合いをつけて出て来てくれる。
そうさせた理由はPO制度や下部カテゴリーへの降格など色々な理由があるだろうが、それらのおかげである程度は勝負ができたわけです。


もう少し続きます

結局、大木時代を振り返る羽目に③

ここでいきなり話をバドゥに戻す。就任前にいくつか大木サンガのビデオをチェックした彼は「運動量が少なすぎる」と評し、それが自分が取り組むべき課題だと言った。まあその結果が太陽が丘を走り続ける練習です。
前述のとおり大木監督時代末期にはパスを回すことが目的となってしまっているのでは感じる場面が幾度とあった。
相手をかわすため大木スタイルのパスであるのに選手が動かないのでボールが行き来しているだけで何も状況が変わらなかったりしていた。動かなきゃ回しているのか回させられてるのかという状態に陥る。
この辺りは高速カウンターや縦ポンをやらないチームが必ず直面する問題ではある。
別にパス回す分にはいいんですわ。問題はパス回しても相手を動かせなかったり、フィニッシュまで繋がらない意味のないパス回しです。
そういった事を素人目にも感じていたわけで、私のようにバドゥの言葉を好意的に感じた人も多かったのではないだろうか。
1年目も2年目もこの問題は少なからずあった。それは3年目も変わりはなかった。
運動量が低下しているならフレッシュな選手や動ける選手を入れればいいのだがそう簡単に事はいかなかった。
もはやクローズではなく大木スタイルと言われるようになった大木監督が作り上げたサッカーは初年度から言われ続けていたとおり特殊すぎる戦術と選手の距離感、パスやフォロー、攻撃などの判断が選手に任されている面が大きくその熟成に時間を必要とした。
そしてこれは厄介なことに時間をかければ全員が習得できるというものでもなかった。
出来る選手は出来る、出来ない選手は出来ない。
和食を作る知識がない人間がいきなり懐石料理を作れない。
それが戦術理解度や試合中に可能なことか技術の差かは知らんが両者の差はスタメン、ベンチ、ベンチ外となって現れる。
スターティングメンバーの連携に比べ途中投入される選手などは意思疎通や一瞬の判断などが遅い選手が多かった。
サブやベンチ外の選手には怪我や表に出てこない理由は色々あるだろうがピッチに立てないにはそれなりに納得できるものもあった。
かくして固定されたスタメンは対戦相手からの対策と運動量の低下を招きと2年目に明確な京都対策がJ2中に知れ渡ったため進化の可能性を示せないでいた。
2011年に猛威を振るった大木スタイルなど2013年には見る影もありません。相手を押しやれることが極端に減った。
大木体制3年目のシーズン、横谷が0トップというか変則FWの位置に落ち着くまで京都は相手を押し込むことに苦労する。
未だに中盤の実力だけなら抜きん出た構成の大木サンガだったが、どこも京都相手に中盤戦を挑んでこないし縦へのパスはたまに入るがそれは常に行われるものでもないので相手側はだいたい横やボールの供給源である工藤を抑えれば大丈夫とそこだけチェックする。
そして実際に横のパスを抑えられると何もできなくなったり、2年目には工藤を抑えられると完全に手詰まり状態になっていた。大木スタイルの閉塞感だけが大きくなっていく。
その一方で極まれに京都対策ではなく自分たちのサッカーをしようと挑んでくるチームがいる。
そういう時は熟成された意思疎通と技術力の差でサンガが内容を圧倒し、相手サポに「パスサッカーの内容では勝てない」と認識させ、他サポは「京都相手に中盤戦を挑むのはアホ」と再認識させるのであった。そしてサポは「大木最高やー」と一時の快楽を……
1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 最初次のページへ >>