小学3年生ぐらいになると、下校して、ランドセルを家に置くや、我が家から400mほどのところのある決まった場所に行った。そこは大きな屋敷の前の道路。しばらくすると、小学生ばかり10人足らずが集まってきて、「今日は何して遊ぼう。」ということになる。最も人気のあったのは「缶蹴り」だった。この遊びには説明は要らないと思うが、あの頃、最もスリルを感じた遊びだった。田舎で隠れる場所には困らないので、鬼になると大変だった。低学年の子供には、鬼を免除するとか、何かハンディを付けていたような気がする。見つかるかどうかより以上に、鬼より速く缶にたどり着けるかの競走にスリルを覚えた。
次は年齢差の小さい子供同士の遊びとして、放課後に校庭でする遊びであるが、「ニクダン」とか「エスケン」と呼ぶゲームがあった。人数の多寡により、多いときは前者を、少ないときは後者を行った。2チームに分かれて、互いに陣地を決め、陣取り合戦を行うので、多分戦前からの遊びだと思う。「ニクダン」は「肉弾」であろうし、忠臣蔵やチャンバラ映画ですら嫌ったGHQが耳にすれば、禁止令も出ていそうだが、とがめられることもなく先輩から伝わっていた遊びだったので、GHQも子供の遊びまでは頭が回らなかったのに違いない。押したり、体をぶち当てたりするので、非力の私は戦力にならなかったが、楽しい遊びだった。「撃ったドン」なんて、物騒な名の遊びもあって、これも面白かったが、ルールをきちんと理解するのに手間取った。
小学6年生になると、放課後はすぐに下校せずに、校庭で夕方になるまで遊んだ。最上級生になると、大きな顔でグラウンドを占有できるので、クラスのほとんどの男の子が集まって、ソフトボールをするのである。因みに、私の学年は一学年一クラスだけで、男子19人、女子12人だった。例えば、15人が集まると、じゃんけんをして順番を決め、6人が打撃陣に、残り9人が守備につく。守備陣の中で捕手と投手だけは順番になる。打撃陣では順番にバッターボックスに立ち、アウトになると、守備陣にまわる。そうして捕手をやっていた子が打撃陣に加わり、投手をやっていた子が捕手に、守備陣の中から順番に投手につく。打撃の上手い子はなかなかアウトにならず、ずっと打撃陣にいることができる。私など下手くそだから、ようやく打撃が回ってきたと思ったのに、内野ゴロでアウトになって、すぐに守備陣に戻ることになる。それでも時にはヒットも生まれるので、下手なりに楽しかった。レフト側は50mほどしかなく、切り立って崖になっていた。崖の上に打ち込むと、崖をよじ登ってボールを拾いに行くことになるので、崖の上は本塁打ゾーンとしていた。19人の男子の中で、本塁打を打つことができたのは3人だけ。毎日毎日やっているので、最多本塁打数の子は100本を超えた。次の子は80本ほど。3人目は5本程度。私は2塁打が限度。時たま、足で稼いで3塁打。12人以下しか集まらないときは、ベースの数を減らし、いわゆる、三角ベースになるが、たいてい13人以上集まって、遊んでいた。
打撃陣と守備陣に分かれているが、団体ゲームではなく、個人戦になっているところが味噌である。私は秋になって、内臓の病気で医者に運動を禁止され、専ら記録係として、みんなの打率と本塁打数を記録した。
ようやくツツジ、シャクナゲの季節となってきた。3月の声とともに咲いたのはゲンカイツツジの交配種(写真1)。花色の濃いのはエゾムラサキツツジ×サクラゲンカイツツジ、薄いのは白花ゲンカイツツジ×サクラゲンカイツツジ、交配者はいずれも志田行弘氏。写真2は‘吉野’、平野重一氏作出。写真3と4はアカヤシオツツジ。私の大のお気に入りのツツジ。1週間ほど前から咲き始め、一昨日が盛りだった。写真の花色が異なるのは、私の写真技術の未熟せいだが、天候のせいもあるかも。写真3は雨天の中、写真4は晴天下。
写真1.撮影 20210308.
写真2.撮影 20200320.
写真3.撮影 20210321.
写真4.撮影 20210322.