私は生来不器用で、逃げ足だけが取り柄だったので、中学時代の部活は球技を避けて、陸上競技部だった。でも、スポーツを観戦するのは子供の頃から好きだった。その初めは野球と相撲である。私がプロ野球や大相撲に興味を持ち始めたのは小学生の頃である。と言っても、情報は新聞とラジオのみ、テレビが我が家に来たのは高校生になってから。小学生の頃の記憶をもとに、Googleで検証しながら、記憶を整理することにした。先ずはプロ野球から。

 父が野球好きで左利きであったからか、セ・リーグ読売巨人(ジャイアンツ)の川上哲治一塁手に憧れ、いつの間にか巨人ファンになっていた。ただ、父の贔屓チームは南海ホークスだったけれど・・・。小学生の頃の記憶にあるのは、川上、与那嶺、南村、加倉井、広岡、内藤、藤尾選手、大友、中尾、別所投手など。好きな選手は川上選手(背番号16)と別所毅彦投手(背番号11)だった。代打の多かったハワイ出身の宮本敏雄選手(愛称エンディー、背番号40)も好きな一人だった。鮮烈に記憶しているのは、樋笠選手の「代打」「逆転」「さよなら」「満塁」「本塁打」で、これは実況放送を聴いていたように思うが、定かではない。5つの要素が揃ったホームランは本邦初とアナウンサーが言っていたように思う。その時の放送の担当は分からないが、当時、人気があったのは、NHKの志村正順アナと解説者小西得郎氏。「なんと申しましょうか。」の小西氏の口癖をよく口真似した。因みに、私の卒業文集の課題、「将来の自分の憧れの職業」は野球放送のアナウンサーで、一人遊びをするとき架空の実況中継をよくしていた。滑舌の悪い大人になってしまった自分を振り返れば、赤面もの。また、川上選手の2000本安打達成は日本初ということで、よく記憶している。他のチームでは、大阪タイガースでは藤村兄弟、吉田、三宅、白坂選手、中日ドラゴンズでは杉下投手、西沢、杉山選手、国鉄スワローズでは金田投手、広島カープでは長谷川投手、洋松ロビンスでは権藤投手の名前を思い出す。洋松はすぐに大洋ホエールズと名を変えた。権藤投手は2,3年勝てず、残念な連敗記録を残された。パ・リーグにはあまり関心がなかったが、南海ホークス、野村捕手、西鉄ライオンズ、中西、豊田、大下選手、毎日オリオンズ、山内、榎本選手、荒巻投手の名は思い出す。近鉄パールス、阪急ブレーブス、大映スターズの所属選手名は思い出せない。そして高橋ユニオンズというチームがあった。このチームはすぐにトンポユニオンズに名を変えた。その後このチームがどうなったかは憶えていない。

 Googleで調べると、松竹が球団経営から手を引き始めて1953年に大洋松竹ロビンスに、翌年に洋松ロビンスに球団名を変え、さらに翌年には大洋ホエールズに変わっている。大洋松竹という球団名には記憶がないので、私がプロ野球に関心を持ち始めたのは1954年(小学3年生)ということになる。因みに前身の松竹ロビンスは2リーグ制がスタートした1950年に小西得郎監督を擁してセ・リーグで優勝している。大洋は現在の横浜DNAベイスターズに繋がる。三原監督を擁して初優勝したのは1960年だった。パ・リーグの高橋ユニオンズは1954年に創設され、トンボ、高橋と名称を変え、1956年に大映と合併したようだが、この合併は記憶になかった。さらに、毎日オリオンズと合併し、毎日大映(略称、大毎)オリオンズになった(1958年)のは、ミサイル打線の名や永田雅一オーナーの顔とともに憶えている。現在のロッテマリーンズ。大阪タイガースは1960年に阪神に改名。国鉄スワローズは現在のヤクルト球団。私がプロ野球に興味を抱いてから球団名が変わっていないのは12球団の内、巨人、広島(広島から広島東洋になってるかもしれない)、中日だけである。

 1954年は中日が優勝した年で、エースの杉下投手がすごい変化球を投げて、手も足も出ないと言われたのはよく憶えている。それがフォークボールだと知ったのはずっと後になってから。川上選手と杉下投手の対戦成績を調べると、この年、50打席以上の対戦があって、打率.189、打点1で、ほぼ完全に川上選手が抑え込まれている。川上選手が2000本安打を達成したのは1956年。樋笠一夫選手の史上初のホームランが出たのも1956年で3月、対中日戦である。調べて驚いたのは、監督兼選手だった初代「ミスタータイガース」の藤村冨美男選手が、同じ1956年に日本史上2本目の代打逆転さよなら満塁本塁打を打っていたこと。権藤正利投手が記録したのはプロ野球記録の28連敗(1955-57年)。でも、400勝の金田正一投手が一目置くカーブを投げる名投手だったそうだ。多分、好投しても、打線の援護がなかったのだろう。

 そして、1957年(小学6年生)秋、東京六大学の本塁打新記録(8本)を達成した、立大の長嶋茂雄三塁手が巨人に入団し、私の巨人ファン熱が最高潮になる。

 

 ササユリの植え替えについて、今冬は2月初旬に作業を終えた。2018年に播種(2017年授粉)したものを幾つかのプランターに植え替えたのを最後の作業にした。2019年播種のものは今冬の植え替えを見送った。写真は2018年播種したものの一つ。写真がよくないので、恐縮である。177粒の種子から3年後回収した球根は65個、4割にも満たない。蕾を付けるまでに、何個の球根が残るやら。

写真.ササユリ球根の植え替え(撮影 20210122)