ロコモコの記録
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ふりかえってみて

もともとブログを書こうと思い始めたのは、
染色体異常の可能性が濃厚になり時期を考えたらちょうど放射能汚染がひどかった震災後であって、こんな経験を他の人にさせない為に書かなければと思ったのが最初だが、社会的な事よりも自分の感情を記録しておきたくて書いた部分が大きいように思う。

あの後妻は産後休が取れたが、自分は特に何もなく仕事になるので、時間をもてあました妻がこの事ばかり考えるのもよくないなと思い、実家に帰した。実家には4歳と2歳の元気な姪/甥がいるので気が紛れると思う。

自分もこの2週間仕事で忘れようと思ったりいろいろしたが、逆にこの疲れが溜まっていたからか熱が出たり、半分パニック障害みたいな症状がでたりで休みが必要なんだなと思った。
(電車の中とかでずっとこのブログを書いていたのも身体的に悪かったと思う)

妻は明後日検診があるため久しぶりにこちらに帰ってくる。

いろいろあって本当に残念でつらい思いをしたけれど、夫婦の絆はかなり強くなったし、家族ってどういうものか気づかされた半年だった。そしてロコモコの弟か妹も早く授かりたいなとも思う。

ロコモコの冥福を祈って 2011.7.9

お別れの日

この日は朝起きて義母、義姉と共に退院する妻と火葬に伏すロコモコを迎えに向かった。

病室に着くと、妻が泣きながらロコモコ達の棺に服を着せてあげていた。
棺にはお揃いのベビー服と義母に買って貰ったおもちゃ、父が買った菊が入っていた。さすがにこの画には自分も目を潤ませてしまった。

あとで聞いたが、朝起きて妻は(確実に泣くであろうこの仕事を)1人のうちに済ませて、好きなだけ泣きたかったらしい。
しかし上司である自分の病棟の師長が思いっきり感情的になっているところに勤務の確認に来て、すごすごと帰って行ったらしい。

棺を閉める前に担当の看護師さんが挨拶に来てくれた。彼女の妹は妻と同じ病棟に勤務していて、顔見知りであったが、津波で母親を失くしている事を間接的に知る事になった。
愛嬌があるのにお産の時にはしっかりしていて本当に頼もしかった。またこの朝、二人の足型をとりませんか と嫁に提案してくれて、母子手帳に小さな足跡を残す事ができた。本当に心からありがとうと思っている。

担当の医師にもお礼を言って棺に入ったロコモコを風呂敷に包んで病院を後にした。

そのまま近くの火葬場に行き、名前を告げ、火葬許可証を渡した。
告別室のようなところに通され、焼香を四人で行った。

しばらく経つと、係りの人が よろしいですか? と聞いてきて棺を閉じようとした。はっと気がついて 顔を見れるのはこれが最後ですか?と聞いたら、答えずらそうに そうです と返ってきた。

なんだかあっけなさ過ぎるな とか、産まれてからほんの少ししか一緒にいなかったのに、もう顔が見れなくなるなんて辛いな とか、二人の顔は一生忘れないなとか色々な感情が出てきた。涙は義母と義姉の前だからグッと堪らえた。

もう。大丈夫です。

と、告げて棺が閉じられた。

ふたつの棺は夫婦で持って、いよいよ釜がある部屋に来た。
大人を焼く釜で一人づつ焼く事になるので、物凄く小さく見える。ロコの棺を自分が台に載せ釜に見送る時に、大きくなるまで育てられなくてごめんね という感情が出てきて涙が止まらなくなった。義母がティッシュを差し出してくれた。モコを見送る時も情けないがこの時だけは声を出して泣いてしまった。釜がしまって二人の顔は思い出の中だけになった。

焼けるまで30分位かかるので、待合室で待っていると業者がやってきて埋葬するお寺をどうするか聞いてきた。水子供養をしていてそんなに遠くも近くもないお寺を選んだ。

しばらくして係りの人が呼びに来てくれて、お骨を骨壷にいれた。大腿骨と骨盤くらいしか形がわかる骨はないが、意外としっかり骨は残った。ふたりで同じ骨壷に入れてあげた。

火葬場は後にして業者の車を追いかけお寺に向かった。本堂の手前に大きな地蔵さんと子供のお地蔵があり、さらに小さいお地蔵さんには傘や服がかけられていた。
ロコモコたちはここまで本格的に供養はしないが、これなら 二人だけでさみしくないな と非現実的なことを考えてしまう。

お寺にお骨を預けて手続きや埋葬の対応はひと段落になった。

この後、義母と義姉を含め4人で昼食をとった後、羽田に送った。
妻の体をきづかい、早めに登場口に向かったが、妻は外には出さなかったがなかなか体調としてはきつかったらしい。やはり母には娘の体調がわかるんだなと感心した。

その後、入院生活で家には食料品等も何もなかったので簡単に買い物をして、家に帰った。
妻はもともとビールが大好きなのだが、妊娠してから禁酒していたのでこの日は自分がいいよと言って飲ませてあげた。

日曜日なので「マルモのおきて」をふたりで見ていた。以前は双子というこの設定で、いずれ自分たちにもこんな生活がくるのかなという思いを抱いていたのだが、もうそれはかなわないんだなと思って、ああ終わったな とこの時初めて思って妻の前で泣いた。

自分も妻も義母と義姉の前で堪えていたものがあってかベッドで二人泣いた。

家族の日

この日はお互いの両親が田舎から妻を見舞いに来てくれる事になっていた。

自分はどうしても他の人に引き継げない仕事があり、妻を病室に残して客先に行った。

自分には無いだろうと思っていたが、客先での作業中にふと前日に起こった事を思い出して集中出来なくなる。自分にも少し休みが要るなと思った。

仕事は無事に昼で終わり、義母と義姉を駅でピックアップして病室に着いた。

妻と話すのは昨日の夜ぶりだが、腰椎麻酔も点滴もとって普通に戻っていた。経過を見る為、明日まで入院して退院出来るとの事だ。

妻が午前中、手続きや火葬の事に着いて段取りをしてくれていた。業者に頼むと月曜火葬になってしまい、妻が一人で送らないといけないので、明日日曜に火葬出来るように別に予約した。

死産証明書は病院で書いてくれるので、それを役所に出して火葬許可証をもらうところから業者にお願いした。棺と骨壺も業者にお願いし、埋葬依頼も会わせて7万円だった。

そうこうしているうちに自分の両親も来る時間になって、駅に迎えに行った。病室に着き、ロコモコ達と面会した。

狭い病室に自分たちの親と子の三世帯が居る事に家族って尊いなと感じた。

この日は自分の両親は直ぐに帰り、義母と義姉は自分の家に泊まった。

おわりの日

この日は朝食をとったあと、LDRという広めの個室に移動した。隣が分娩室なので、いつ分娩になってもおかしく無い状況になったんだと思った。

昼前になると今まで普通に会話していた妻が無口になり、
あり得ないくらい痛い
と言い出した。

ついに陣痛がやってきた。おなかを触ると妻の身体の一部とは思えない硬さだった。

ただ、この痛みは腰椎に麻酔を打つとすっかり治る。ただ、定期的に投与される陣痛促進剤の効果でおなかの張りは残っていて、痛みが無い分この張りの周期の観察が大事だということだ。

今まで病室でもパソコンで仕事していた自分もこの辺りからずっと妻のそばにいて手を握っていてあげた。

夕方前位に「おしるし」が出て、そろそろかなという感じになった。師長さんも来てくれて、今晩には出て来てくれそうですね。と言ってくれた。

自分は苦しむ妻を長く見ていたく無かったし、翌日午前はどうしても休め無かった仕事があるので、出来ればこの日にお産を迎えたかった。

そう思いながらも夜は8時半を過ぎ、9時になろうとしていた。ひょっとすると今晩は無いかもとも医師から言われた。妻は痛みで会話がしたく無くなっていたのでパソコンを開いて最後のメールを打っていたその時、

ねぇ。なんか出たみたい。どうしよう。

と妻が言い出した。すぐにナースコールを押したがなかなか看護師は来てくれない。そうしている間にも

あ、なんかまた出たみたい。ぷよぷよしてる

と状況は進んでいるようだ。

自分は情けないが布団を上げて中を確認する勇気が無く、ただ看護師が来るのを待つしか無かった。

看護師が来て、分娩台に移動出来ますか?と聞いたが、妻は もう多分出てるから無理と言って布団の中身を見てもらった。看護師の表情が変わり、応援を呼んだようだ。

そこからは数分前からは想像もつかないような戦場になった。

自分は血を見るのが苦手なので分娩本番の立会いはしないつもりでいたが意図せずその場に居合わせる事になった。

看護師さんと医師がいつの間にか部屋に5~6人集まり、妻を仮の分娩台に移そうとしたが、やはり妻のショートパンツには風船大の膨らみがあり、そこから羊膜と羊水に浮かぶ胎児の姿が見え、ショートパンツの間から落ち、ベッドに横たわった。着衣を脱がして移動する間、もうひとつの風船も出て来て医師がそれを手で持ったまま分娩台に移動した。

自分はここで下腹部に向けていた視線を妻の顔に向けた。

妻は入院して初めて泣いていた。

顔を見たら、いたたまれなくなって枕元に行った。妻の妊婦としての役割はもうここで終わった為か、看護師さんが

赤ちゃん、綺麗にに出て来てくれてるよ。お疲れさま。

と言ってくれていた。妻は安堵で泣いていたのか、淋しさで泣いていたのかわからない。

下半身ではロコモコ達が取り分けられトレイに乗せられていた。
遠目に見て 大きいな とまず思った。しかも少しだけ動いていた。
まだ処置が落ち着いていない事もあったが、自分は情けないながらロコモコ達の近くに行ってあげれなかった。
さっきまで立会う心準備も出来ていなかったのに我が子の死に際を直視する勇気が無かった。

臍帯の縫合と臍帯血の採血も終わって、胎盤が出るまで少しという時に看護師さんが、意図せずモコを抱いて持って来てくれた(夫婦の間では直後に会うかどうかは、その時決めると伝えていたのに、何の許可も無く目の前に持って来てくれたのは情報共有の不備か、個人的な判断なのかわからない)

妻はまだ精神的に落ち着いていなかったので自分だけが会った。

直視した第一印象は意外にも、可愛いな だった。手足もしっかりしているし顔立ちも完全に人間の赤ちゃんだ。
ただ、エコーの診察そのままで首回りから頭頂部にかけて嚢胞、口と鼻の間が割れていた。もうモコは動いてはいない。

しばらく会ったあと、看護師さんに
綺麗にして貰えますか
とお願いしてロコモコ達を本当の分娩室に連れて行って貰った。

その後、胎盤が出た後、出血の度合い等の検診を行ってお産は終わった。
ロコモコ達は産道を全く傷つけず出て来てくれたおかげで、妻の負担は軽く済み退院も早く出来そうとの事だ。

その後、自分はそれぞれの両親に電話をかけ、ひとまずお産は終わったよと伝えた。義母は妻とロコモコ達を会わせたく無かったようだが、自分は会って欲しいと思うと訴えて、それならいいよと言って貰えた。

妻の処置が一段落してLDRから普通の病室に戻ったあと、妻はロコモコ達と会った。妻は涙は見せず、感動していたようだった。(結果として死産になったが、自分達の子供を初めて目の当たりにすると、不思議と感動する)

嚢胞があったモコに比べ、ロコの方が意外にもやや小さい。口唇列がある以外は元気な子だ。

染色体検査で分かってはいたが、2人とも男の子で、しっかり付いていた。

病室で4人だけになっていろんな事を考えた。

この日は妻の妊娠のおわりの日で、ロコとモコの誕生日であり命日になった。

2011/6/24 21:03 ロコ
2011/6/24 21:05 モコ

中絶処置2日目

この日は午前中は何も処置は行われず、妻も鈍痛に耐えながらテレビを見ながらのんびり過ごした。

昼過ぎの処置でラミナリア桿を抜き、いよいよ腰椎に下半身麻酔が打たれ、陣痛促進剤を膣錠で投与される。しかも腕にはいざという時のルート確保の為、点滴が打たれた。

痛みは麻酔のおかげで無くなったようだが、麻酔が効きすぎて足の感覚が微妙に無くなるようで、歩く時に足元が怪しい。

さっきまでは重い生理痛くらいにしか見えなかった妻が一気に病人になった。

見た目とは逆に鈍痛が無くなった妻は少し元気になってコンビニに行ったり、色々な話をした。

3時間位経つと麻酔が切れてきて痛みが出てくる為、その度に背中から伸びるチューブに黄色の液体を注射すると、また別人のように痛みがなくなる。

こんな事を繰り返している間、自分は子供の火葬や埋葬の準備をしていた。

妊娠12週を超えている場合、死産届けを役所に出し、火葬許可証を貰って火葬する事になっている。

自分たちはある程度は葬儀業者に任せようとは思っていたが、火葬はできれば立会いたいと思っていたし、棺の中には二人の為に買った洋服も入れてあげたいと思ったので、自宅と病院を行ったり来たりした。

そんなこんなで2日目は終わった。

中絶処置1日目

この日を迎えて迷いは自分には無かった。
正直もうこの道しかないと思っていたが妻はどうだっただろう。

朝二人で横浜医療センターの産科外来に受診。担当医が処置概要について説明してくれた。

その後、入院受付の為に事務に行く。妻は上司にあたる師長に中絶の確定について連絡できてなかったので、自分が入院手続きをする間に妻は病棟に行った。

受付の事務のおばちゃんが、提出した書類をサッと見て、

あ、産科って事はお産ですよね?お産は保険診療じゃないんですよ!

とバカでかい声で呼んだ。オイオイと思いながら、近くに行って

中絶なのですが、

と小声告げると、おばちゃんの顔も周りの人の雰囲気も一気に軽蔑に変わった。

そうだ。自分がやろうとしてる事は世の中一般では不道徳な事なんだ。すっかりそんな世間体は忘れていた。

妻が目を濡らして帰って来た。いつも自分の口から事実を話すと妻は泣いてしまう。

そのあと産科病棟へ。看護師長がやさしく話しをしてくれた。相部屋にすると、産後で赤ちゃんがいる方もいるから、奥さんの気持ちを考えると個室がおすすめですと言われた。そんなに高い個室料ではなかったから、個室をとった。(あとあと考えるといくら払ってでも個室が良かったと思う)

担当になった看護師の女性も優しく対応してくれた。

病室で暫く落ち着いた後、検診に呼ばれ、エコーを一緒に見た。自分は鈍感なので、これは暗黙に

いまからこの子達を堕ろす処置をしますが本当にいいですか?

と聞かれている事に気が付かなかった。

妻はそのまま処置室に入り、自分は廊下でずっと待っていた。
廊下には当然ながら赤ちゃんが何度も往復するし、新生児室から元気な鳴き声も聞こえてくる。
本当はこの病棟は幸せな人達だけが来るところなのに、自分は何を待っているのかを考えたら、なんで自分たちにだけこんな事が起こるんだろうかと正直思った。

妻はもう20週だったので初期の中絶で行われる掻爬は無理で、
経膣の人工早産というような形がとられた。

通常の臨月から出産までを無理矢理3日で済ませるという事だ。

まずは子宮経管を広げる為、ラミナリア桿と呼ばれるボールペンよりやや細めの棒を膣から子宮口に入れて、段々と本数を増やしていき、ある程度広がったところで、子宮伸縮剤で陣痛を起こさせお産する。

この時の処置ではラミナリア桿を3本入れた。処置室から出てきた本人曰く

今まで体感した事がない違和感

らしい。まぁ普通に歩けるので外からは何も分からないが、まだそんなに痛みは無いようなのでほっとした。

自分は入院をした事も付き添った事も無いので、入院生活を初体験したのだが、下手に動けない分、本当にヒマだと思う。(もっとも自分は平日に休みを貰っている為、パソコンでメール処理をしていて全然忙しかったけど)

夕方に再度処置をし、ラミナリア桿を10本に増やした。さすがにこれは痛むようで、もともと生理が軽い妻は

重い。お腹が重いんだよ。生理で重いって感覚初めて分かった…

と痛がっていた。

この日の処置は終わり。自分は病室のソファーで横になって寝た。

現実感の無い一日だった。

何もない日

明日から入院して中絶の処置が始まるので、
この日は何もない最後の日になった。

妻は先週の入院の影響からか夜眠れない日が続いていて逆に朝起きられない。

自分は残業ができずに仕事が溜まっていたから始発で会社に向かった。

妻が寝ていたのでそのままにして出発した。



朝上司に中絶を決めた事と明日から休みをもらう事を告げた。
最初は木曜の午前は出社するつもりでいたが、こういう時は休めと言ってくれたので、ありがたく甘える事にした。
本当にいい上司だ。

仕事は溜まりに溜まっているが妻も淋しがるので21時に何とか終わらせて23時前に家に着いた。

何を話したかは覚えていない。

こんな時に夫としては最低だが、正直疲れていた。

審判の日

いよいよこの日の夕方、検査の結果が出る。

自分は新子安の客先で打ち合わせをした後、30分遅刻位で病院に着いたがたくさんの先生は自分を待ってくれていた。

まずは、遺伝の先生から染色体検査の結果が伝えられた。

結果は陰性。

正直言って嬉しさよりも不安が大きくなった。ここが陽性なら、中絶せざるを得ないと思っていたのにまた迷いがでる。

その後、心臓の先生から説明。

詳しくは書かないが、素晴らしい説明だった。
普通はこうで、あなた達の子はこうだから、そのままだとここがダメになるから、こういう処置をしますと説明してくれた。
心臓については、出産後に手術を繰り返せば治せるという事だった。


最後に脳の先生から。
症状としては水頭症。小脳の発達不全。
出産後に頭の水を抜く処置が出来るそうだが、その後先生が慎重に言葉を選びながら言った。


私が知る限り、ここまで水頭症が進んでいる子で、普通に話したり出来る子は、1人もいません。


こちらが質問する前に、1番言いづらい事を答えてくれた。

あと口唇口蓋裂が見られるそうだ。

上の話はいずれも二児とも全く同じ症状だから外的な要因は考えづらく、染色体検査でわからない粒度の遺伝情報の異常の可能性が高いという事だ。

いずれにしても、脳の状態から二人の間では中絶を決定した。

こども医療センターのスタッフはどなたもプロフェッショナルだった。心から感謝します。

八景島

この日は二人とも休みだったのと、
妻がまた入院になる可能性が高かったから久しぶりに外出する事にした。

何より明日の審判の日までその事を頭から外しておきたかった。

水族館も大人ながらなかなか興奮する。

当然ながら子連れが多い。妻とは今回はダメかもしれないけど、必ず子供を連れてまた来ようと約束した。

この辺りから、自分にも胎動がわかるようになっていた。妻は理屈では中絶を選択せざるを得ないとわかっていても、母親としての感情がそれと戦っているようだ。
photo:01

妻の誕生日

今日は妻の誕生日。

本当は審判の日になるはずだったので、自分は午後休だった。

せっかくの誕生日なので、入院でずっと外に出ていなかった妻を連れて横浜に遊びにいった。

いつもはあんまり綺麗ごと言わない妻も、「今日は夜景が見えるところで食べたいな~」と
いうことでみなとみらいへ。

二人とも少しだけ現実を忘れた時間だった。

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