撮影現場で聞いた話。
休憩時間に向かいに座った若い女優さんに何故この世界に
入ったのか、何の気なしに聞いたところ、こんな話が返っ
てきた。
Rさんの話。
ある地方都市で育った彼女は高層マンションに住んでいた。
そこで、小学校のころ不思議な歌を聞いていたという。
唄は途切れ途切れに聴こえるので、歌詞は良く覚えていない。
たまにはっきり聴こえるサビの部分も
「東京~、○□#&$‘&の街、東京~」
という彼女にはやや大人すぎるモノだった。
よくある東京の悲哀と賛辞を高らかに謡いあげる「歌謡曲の
ような感じ」だったようだ。
男の、低くてとてもいい声だったという。
彼女の家は母子家庭で男性はいない。
彼女は長い間、唄の主を同じマンションの住人だろうと思っ
ていた。
彼女の部屋はマンションの最上階近くにあり、風向きによって
階下の音がすぐ間近で聞こえるときがある。
たまに隣の部屋から聞こえてくることもあったが、それも風向
きか何かだろうと思っていた。
防音設備もふとした加減で、音が漏れるタイミングでもあるの
かもしれない。
少なくとも母親にはそう教えられていた。
だが、高学年になったある日、彼女はその歌の主を見ることに
なった。
彼女が留守番をしながらリビングで本を読んでいると、また東京
の歌が聴こえてくる。
ああ、まただな…と気にも留めずにしばらく本に目を落としてい
たが、ふと視線を感じて窓の外を見たという。
ベランダの柵の外に、男がいた。
スーツ姿の男があの聴き慣れた東京を謡いながら、宙を浮かん
でいる。
男は左脇に抱えた茶色の大きな板のようなものを、まるで翼の
ようにゆったり動かして漂っていた。
よく見ると、それは硬くて頑丈そうなドアだった。
あ、この人が謡ってたんだ・・・と思いながら、聴きなれた歌より
どうやってドアで空が飛べるのだろうと、まじまじと見ていたので、
ピカピカ光る金色のドアノブまで付いていたのをはっきり覚えて
いる。
まるで大物歌手のように、朗々と謳いあげている男がおかしく
なってRさんはしばらく見ていたが、次第に気味が悪くなってき
た。
男の目が瞬きもせず、無表情にじぃ・・・と彼女を見るからだ。
怖くなったRさんは慌ててカーテンを閉めると、近くの公園まで
かけていって、仕事先から母親が帰るのを待っていたという。
それ以来、男性歌手が謡う歌謡曲が苦手で長い間聴かなかっ
たが、気がつけば芸能界に入り東京で暮らしている。
あの男の目、そしていまの自分の生活が何か関係があるように
思えてならないという。
最近なんとなく「東京砂漠」を聴いてみたが別に普通だった、と
彼女は笑いながら話してくれた。
男は布施明や尾崎紀世彦のようなタイプでもなく、地味なスーツ
でノーネクタイの、薄くてほとんど印象に残らない顔立ちだったと
いう。
結局、その唄を最後まで聴くことはなく、いまでも印象に残って
いるのはサビの「東京~」という部分だけになった。