本来は、このポスターに名前が載るはずだったが…


 高倉健が、悪性リンパ腫のために、都内の病院で死去した。享年83。


 私は、健さんを東映における三船敏郎だと考えている。つまり三船が、東宝の男優が憧れた指針だったように、健さんは東映の男優たちがああなりたいと願ったスターだったからだ。国際スターという点でも共通している。健さんはハリウッド映画「燃える戦場」(70年)や「ブラック・レイン」(89年)に出演し、特に中国での人気も高かった。


 しかし三船は、晩年の出演作に名作がなかったが、健さんは東映を離れ、フリーになってから勢いが付いた。「幸福の黄色いハンカチ」(77年)の山田洋次監督、「冬の華」(78年)の降旗康雄監督などと組んだことが、任侠映画を脱却し、年齢層の幅広いファンを獲得する結果となった。あらゆる世代に勇気を与える国民的大スターとなったのである。


 ところで、私だけしか知らない、秘蔵のエピソードを一つご紹介しておこう。一度黒澤明監督が、健さんを起用しようと思ったことがあった。「乱」(85年)に登場する次郎(根津甚八)の重鎮・鉄(くろがね)の役は、井川比佐志が演じていたが、最初、黒澤がイメージしていたのは健さんだった。実際、黒澤の絵コンテは、健さんを想定して描かれている。


 ところが、この巨匠からの熱いオファーを断っている。私は健さんに会った時に、「黒澤さんが残念がっていた」と伝えると、即座に、「光栄です!」と言いきった。断った理由を尋ねたら、「『居酒屋兆冶』(83年)とのスケジュールの調整がつかなかったから」と答えた。そして長い沈黙があった後、意を決したように、「黒澤先生の作品なら、馬から落ちる役でもいいんです。次はぜひやってみたいと思ってます」と、出演しなかったことへの痛恨さを告白した。


 その後、いくつかの情報によると、この時、断ったのは、森繁久弥のアドバイスに従ったらしいことが分かった。「君は不器用な役者だから、巨匠の厳格なイメージに合わせられるような演技はやれない。途中で止めれば周囲に迷惑をかける。だから出ない方がいい」。当時、日本俳優連合の理事長だった森繁は、後輩を思いやる気持ちで、こう発言したようだ。しかし断った後も、黒澤映画に出演したいと願う思いは、健さんの中で相当に強かった。


 あの時、黒澤映画に出演していたら、健さんの新しい一面が引き出されていただろうか? それとも「影武者」(80年)で降板した勝新太郎のように、決裂という結末になっていただろうか? それは分からない。

 

 黒澤監督が亡くなった時、「お別れの会」の祭壇には、弔電が山のように積まれていた。その一番上に乗せられていたのは、高倉健から寄せられた弔電だった。