西村雄一郎のブログ

古湯映画祭を訪れた新藤兼人監督(2001年9月・撮影筆者)



新藤兼人監督は、もともと脚本家だった。彼は生涯に3人の妻をもった。


戦前に結婚した最初の孝子夫人は、スクリプター(記録)だった。まだ新米のシナリオ・ライターだった新藤を常に励ましたが、1943年8月、過労から結核をこじらせて死亡する。その思い出を、新藤が脚本に仕立てたのが「愛妻物語」(51年)である。「この作品だけは、どうしても人に渡したくない」と思い、自ら監督も担当する。この作品の評価が高かったために、以後、新藤は脚本家だけでなく、監督を専業とする。


この時、愛妻役を演じたのが、当時「百万ドルのえくぼ」といわれた宝塚出身の大映スター、乙羽信子だった。それだけに因縁が深い。彼女はこの映画に出演して女優開眼。続く「原爆の子」(52年)にも出演して、大映を退社。新藤の独立プロダクション「近代映画協会」に身を投じる。汚れ役もいとわない。


周りからは狂気の沙汰といわれたが、乙羽の新藤に対する感情は、しだいに尊敬から愛、そして思慕に変わっていった。しかしこの時、新藤は美代夫人と再婚しており、3人の子供もあった。この夫人との間にできた次男が、「近代映協」の社長を務める次郎であり、次郎の娘が風である。古湯映画祭に来てくれたのは、この方々である。


以後、乙羽は新藤作品のほとんどに出演し、彼を支えていくことになるのだが、2人の関係は公然の秘密となっていった。そして新藤は71年に、美代夫人と離婚。新藤は乙羽に結婚を申し込んだが、乙羽は「私だけが幸せにはなれない」と断った。


しかし、美代夫人が脳出血で他界した後、乙羽に結婚を勧めたのは、美代夫人の子供たちだったという。こうして27年間の関係にピリオドが打たれ、乙羽は新藤の3番目の妻になる。その時の挨拶状。


「拝啓 私たち このたびながい交際のすえ結婚いたしました いままでは いろいろと ご厄介をかけましたが こののちもよろしくお願いいたします 敬具 昭和五十三年四月吉日」


新藤のシナリオのように、厳しく、簡潔で、いささかテレを含んだ文面である。


それから15年後、新藤は乙羽の中に巣食う肝臓ガンの存在を知り、「後一年半の命だ」と医師から告げられる。「乙羽さんの、女優としての、最後の場をととのえるべきだと思った」(「ながい二人の道」)という。新藤は「午後の遺言状」(95年)の映画撮影を敢行。それはまさに〝同志〟的つながりによる思いからであった。乙羽は撮影終了後の4ヶ月後に永眠。この映画は、女優・乙羽信子への最高のプレゼントとなった。


そして今年、新藤兼人は「一枚のハガキ」(11年)を残し、自分が百歳の齢になったのを見届けるかのように逝った。それはまさに乙羽信子と同じように、〝燃え尽きた〟死であった。


新藤兼人が百歳まで映画を撮ることができたのは、彼を支えたこうした家族の存在があったからだ。その意味で新藤兼人は、本当に家族に恵まれた人であった。