西村雄一郎のブログ

2001年5月21日 渋谷「シネマライズ」の壇上で新藤兼人監督(右)と対談



新藤兼人監督が、5月29日、老衰のために死去した。お悔やみというより、よくぞここまで現役で映画を作り続け、周囲の家族もそれを支えたという点で、監督の生涯を祝福したい。1912年4月22日が誕生日だから、自分が100歳になるのを見届けたかのように、1ヵ月後に息を引き取ったのも、まことに筋を通す新藤監督らしい。


昨年、私が審査員を務める山路ふみ子賞で、新藤監督の「一枚のハガキ」(11年)が候補にあがった。別の審査員からは、否定的な意見も出たが、私は「これは老人が描いた絵日記だと考えればいい。絵日記の絵にディテールがどうだこうだとケチを付けてもしょうがない。むしろこの年齢で、戦争への憎悪を、まだ伝えたいと思う熱意を賞賛すべき」と強調した。


その意見が通って、グランプリというべき映画賞に決定。11月25日、東京新橋で行われた受賞式には、新藤監督も車椅子で参加した。「最後の仕事と思って、心を込めて作った。いつまでも映画のことを考えて、人生を終わりにしたい」と語った。晩年は、「これが最後」「これが最後」と、撮影のたびに言うのが口癖だった。しかし、結局、この「一枚のハガキ」が遺作となった。その意味で、この作品で賞をプレゼントできたことは幸いだった。


新藤兼人監督との最初の接触は何だったろう?と思い出していたら、拙著「黒澤明 音と映像」の書評を、監督が「キネマ旬報」の99年2月上旬号に書いてくれたことに思い至った。新藤監督は「異常なほどに黒澤明は音楽に執着した。(略)黒澤映画のすべての音楽に、著者は執拗に食いこんでいく。黒澤明も異常だが著者もそれに劣らない」と明晰な頭脳で、この本を分析してくれている。


実は編集部から、「書評を誰に頼もうか?」と聞かれた時、即座に「新藤監督がいい」と私は答えた。なぜなら、私が最も繰り返し見て、最も影響を受けた新藤作品は、「ある映画監督の生涯・溝口健二の記録」(75年)だったからである。この映画は、新藤監督が恩師・溝口に関係した人々にインタビューし、それを積み重ねて溝口論を展開した傑作だ。私は、この映画を見た瞬間、この形式を使って、黒澤論を展開できないかと思った。


その実践を、「黒澤明 音と映像」という本で具体化してみたのだ。私は終始、映像のシナリオを書くつもりで、この本を書いた。つまり、もともとの発想の源を与えてくれた監督の感想を、聞きたかったのだ。監督は見事にその狙いを看破してくれた。「この本も、主人公を取り巻く証言形式によって、文で対象に迫ってゆく」と記している。


2001年5月、新藤監督に関する思わぬ仕事が舞い込んだ。東京渋谷の映画館「シネマライズ」で、2週間にわたって、新藤作品が連続上映されることになった。その上映に伴って、連日、監督も含むゲストが招かれて、トークショーが行われる。そのインタビュアーというべき相手役を、私が仰せつかったのだ。このイベントが、この年、新藤一家を佐賀県に招くきっかけになるのである。