今週の📺【青天を衝け】は「兄ぃ」こと、尾高惇忠も亡くなってしまいましたね😢

最後、慶喜の言葉に✨感涙した時は、見ててとても幸せな気持ちになりましたおねがい


その直後ナレーションで、20世紀に入ると亡くなったと伝えられたので

「ナレ死」と軽く書く記事も多いですがダッシュ 私は、時間が足りない中きれいな終わり方で秀逸な感じがしました✨🙏✨

 

(でも栄一はもうちょい🧓老けメイクを施してあげたほうがいいんじゃ?!💦

喜作は見事なグレイヘアなのに、栄一は肌が綺麗すぎて(羨ましい!)、そのうえほぼ黒髪なので、

吉沢亮君が、せっかくいい演技しているのに、彼の足を引っ張っている気がして💦)


 ということで、水戸や都内編は後回しにして、今回は尾高惇忠関連にしました(笑)


まず、以前平九郎の足跡を辿り、飯能戦争の舞台だった能仁寺の境内にあった

飯能戦争から70年近くが過ぎた昭和12年、飯能の有志の方々が、振武軍を顕彰する為に建てられた石碑↓

この碑文を書いているのは実業家の尾高豊作氏で、尾高惇忠のお孫さんとこの時書きましたが、

豊作さんの母親は、例の栄一のお妾さんのくにさんの子なので、

尾高豊作さんは、尾高惇忠の孫でもありますが、渋沢栄一の孫でもあります。

 

そして📺【晴天を衝け】の🎼オープニング曲の指揮者尾高忠明さんは(今年亡くなられた惇忠(ただあつ)さんは兄)、

豊作さんの甥なので、尾高惇忠の曾孫であり、渋沢栄一の曾孫でもあります。

 


さて深谷市、🏠【尾高惇忠生家】↓から

徒歩🚶数分にある神社鹿島神社

下手計(しもてばか)の⛩️鎮守社で、拝殿には渋沢栄一揮毫🖌️の「鹿島神社」の扁額が掲げられているそうです
(題名で、茨城の立派な⛩️鹿島神社を想像していたらスミマセン🙏
こちらは細い道の脇にあり、最初は通り過ぎた程、小さく地味な神社です💧)
 
境内には惇忠の偉業を称える藍香尾高翁頌徳碑が↓栄一達により建立されました✨
 そしてこの碑の篆額は徳川慶喜公の揮毫だそうです✨おねがい
水戸まで爆弾追鳥狩を見に行っていたほど徳川斉昭に傾倒し、
(今は🛣北関東自動車道が出来ましたが、それまでだって国道50号しかなく、当時もかなり時間掛かっていたと思える)、
ドラマでも、その時に幼い慶喜を見掛けていた惇忠にとって、国の発展に貢献してきた功績が、こうして、1番本人が嬉しい方から認められ、喜ばしいですね✨
 
そして写真は無いですが💦、↓ここよりもっと手前に、
 朽木となった🌲大欅の根元に湧いたみずがめ座神水で共同風呂が設けられていて、
栄一の母えいはこれを汲み、🤕らい患者の背を流したと伝えられているそう。

 

 
そして、まだ彼らが豪農だった頃、血気盛んに尊王攘夷を掲げ、🏯高崎城(群馬)乗っ取りを惇忠の家で企てていましたが(同志69人!)
長七郎に「尊い命を犬死にで終わらせたくねぇんだ!」と反対され中止となりました🙅
 
その🏯高崎城は、中山道と三国街道の分岐点にあたる交通の要衝であり、その監視を行う城が必要とされ
1597年、徳川家康の命により、井伊直政に築かせたお城だそうです🏗🏯
現在は高崎城址公園として、外堀と一部の城壁が残るだけで、

 跡地には、 高崎市役所や、図書館等も建てられ、調査の際に発見された石垣水路とみずがめ座、石樋の一部が移築再現されています↓
高崎城内にあった16の門のうち、城内に出入りする武士や商人などが通行していた通用門がこの東門
 
↓乾櫓も市指定重要文化財だそうです。
そして⛲公園には↓🎼音符が飾られたり♪


☎電話ボックスが、巨大🎸ギターの中にあったり↓しているのですが
ここには🏤群馬音楽センターというホールがあり、私も大昔(30年以上前びっくり💦)ここに、BOØWYのライブに行きました爆笑飛び出すハート
 
🏟️東京ドームのLAST GIGSや、伝説の新宿都有3号地ライブも行きましたが、それより数年前に、初めてBOØWYを生で見たのがここでした。
(こう書くと、超熱烈ファンっぽい💦)
 
あのパラリンピック閉会式で、🎙ルイ・アームストロングの「What a wonderful day」歌った奥野敦士(ROGUE)さんやBUCK-TICKも、ここで演っていたんじゃないかな?…Backnumberも?
 

…かなり話が飛びましたが、尾高惇忠に戻ると、
栄一の陽明学の師でもあり、実業家としても国の発展に貢献してきましたが、1番有名なのが🏛️富岡製糸場ですねウインク
去年、明治村(愛知県)で見付けた生糸商標⬇️

しかしその後、昭和末期は日本の🧵製糸業の衰退とともに操業を停止し、
何度か解体されかけたのを(↑この商標の)片倉工業が買い上げ、大切に保管してくれ🙏✨、その後全てを富岡市に寄贈されたそうで
 
私は10年ほど前、世界遺産登録される直前の頃の富岡製糸場に行きましたが、当時まだ観覧出来るエリアも少なく………
もっと見せ方を工夫しないと
めざせ🙋世界遺産」のままだろうな…(登録に尽力された方スミマセン🙏💦)と思ってがっかりして帰ってきたら、そのすぐ後に登録され驚きましたびっくり気づき
 
現在は、見所も増え、かなり改善されたようですね✨
 
そして🏛️世界遺産『富岡製糸場と絹産業遺産群』絹遺産群の1つ↓田島弥平旧宅
この時は、私達夫婦しか見学者はいませんでしたが、警備員が一人いらっしゃいました。
しかし現在も子孫の方が住んでるので、中には入る事は出来ません🚫
 
そして、こう見ると、この辺ではごくごく普通の古い民家に見えますが💦
 
まず田島弥平(1822~1898)とは………
当時、育てるのが難しかった🐛蚕の育て方を研究し、🌀風通しを大切にした「清涼育」を開発🧐
そして文久3年(1863)、それを行うための瓦屋根、二階建ての住居兼蚕室の主屋を完成し、(その家が先程の家)
📖『養蚕新論』という本を出し、清涼育を広めたそうです。

明治元年には、買い付けに来ていた🇮🇹イタリア人一行が、横浜からここまで訪れたようです。
 
因みに、ここは住所は群馬県伊勢崎市ですが、深谷の尾高惇忠の生家から、なんと車で5分位の所にありますびっくり笑い(群馬県と埼玉県の県境)🚙DASH!

弥平はその後、明治5年、旧知の渋沢栄一からアドバイスされ、
蚕種(蚕の卵)の品質を統一して作り、販売するための会社「島村勧業会社」(養蚕では日本初🔰)を設立し、🇮🇹イタリアへ直輸出も開始したそうです🚢
直接、イタリアにも4回も行ったらしいですが、(群馬県で初めて海外に行った人らしい電球)
ドラマの中で喜作がイタリアに行った時、一緒に行っていたのかな?と思いました🚢

昭和初期に作られた↓コンクリート製の冷蔵庫跡
軽井沢から運んできた氷を使って、蚕の卵を保存していたそうです。
 
こんな事言ったら失礼ですが、のどかで、140年前にそんなに国際的な場所だった名残は、現在は全くありません💦
 
そして庭には↓貞明皇后行啓記念碑
 皇居で行われている養蚕は、明治4年から現在も行われており、当時大蔵大臣だった渋沢栄一を呼び、養蚕について様々な質問をしたらしく、
明治5年、6年、12年は、弥平が養蚕の指導者に選ばれ、吹上御苑を訪れたそうです。

そして昭和23年には、大正天皇の皇后だった貞明皇后が、こちらの田島弥平宅を訪れたそうでびっくりキラキラこの石碑は、それを記念し建てられたそうです。
わざわざこんな田舎まで!?と思いましたが…

実は4年前は、ここから車で5分ほどの
渋沢栄一の生家に✨上皇、皇后両陛下(当時は天皇、皇后両陛下)がいらっしゃいました✨
にこやかな笑顔を見せて下さったので、
私はスマホスマホ連写(手動.……左差し指動?)しながら、画面でなく、
改めて生のお姿を拝顔させて頂くと、何故か急に感動が込み上げ、胸が厚くなってきましたキラキラ
ご年配の方々が、お願い拝む気持ちが分かるというか、キラキラ神々しくて.……、これがオーラなのかしら?

ご多忙な公務の中、私的な旅行とのことですが、こんな田舎にいらして下さり、感謝申し上げます。
(確かこの時は、前日に神社高麗神社にも参拝なさったそうで、それも感動いたしました✨)

その後、1時間以上経って、最後に街道沿いで
一瞬ですが、先程よりぐっと近くで美智子様のご尊顔に拝する機会に恵まれ(オスマン帝国外伝見ていると、こういった台詞が自然と浮かぶ?!(笑))
美智子様、さようならキラキラバイバイキラキラ
たった数秒の為に、暑い中待った甲斐がありました。

本当にお二人が、ご健康でありますようにお願い
🧓👵アーミン🛐