また数ヶ月前に遡りますが💦
去年のクリスマスに🎄、久しぶりに夫から📗本をプレゼントされました✨🎁✨

ウィーン包囲~オスマン・トルコと神聖ローマ帝国の激闘』(著:菊地良生)
去年、ちょこっと本屋で📖立ち読みしていたのですが、
👑スレイマンの第一次包囲網は、たった一章だけだったし、高かったので(¥2,300)💧その時は立ち読みのみでした😅

あとサブタイトルの『オスマン・トルコ』明記も…本文でも全てそう書いてましたが、
 
以前、国際政治学者の高橋和夫さんが📺放送大学で
「昔はオスマン・トルコと呼んでいましたが、今は研究の結果、トルコだけでなく多民族の国家なので、オスマン帝国と呼んでいて
今でも「オスマン・トルコ」と呼んでいる人は、中近東の専門家ではないですねえー

みたいな事を言っていたので(笑)…💦
(確認しようと思ったら、いつのまにか、夫に📼録画を消されてたムカムカ)

するとやはり、著書の菊池良生さんは、🇦🇹オーストリアがご専門らしく、🦅ハプスブルグ側からの話がメインでしたが、色々と興味深い話もたくさんありました。
 

爆弾第二次包囲網がメインなので、オスマン帝国は、👑メフメト四世(👸キョセムの孫)の時代で、私もあまりよく分かりませんが💦

大宰相👳キョプリュリュ・メフメットから、
息子ファジル・アフメット へ、キョプリュリュ家の大宰相世襲時代に入り、
ウィーン包囲網の司令官カラ・ムスタファ・パシャ(キョプリュリュ・メフメットの婿)が登場し、その辺詳しく書かれていました。

そしてちょっと気になったのが
👳キョプリュリュ・ムスタファを討ち取った💂ルートヴィッヒ・ヴィルヘルムについて、

::::::::::::::::::
野戦でひときわ目立つ赤い上着を付けることで、トルコ陣営から「帝国の赤い楯」と呼ばれ、
またトルコ人の服装を好んだので「トルコ人ルイ」とも託名されている
::::::::::::::::::::::
というのを読んで思い出したのが、一昨年行った『ハプスブルグ展』で気になったこの🖼⬇️
赤いカフタン着ている人は誰だろう?
とずっと思っていたのですが、もしかしてこの人とか?!
🖼《対トルコ戦争の寓意〜
コンスタンティノープルを背にした宣戦布告
(Allegory of theTurkishwar - The Declarations of the war before Constantinople)
 
両方ターバン👳👳‍♀️巻いているので、分かりにくいと思ったのと、赤いカフタンが目を引いたので印象に残っていました。

……が、題名以外は詳しい事が分からず、もしかしてこの人がトルコ人👳‍♀ルイとか?
 …と、…そんな気がしただけで、結局妄想止まりですけど💦(笑)


そして、結局ウィーン陥落は免れ、👳‍♂オスマン軍は撤退したわけですがランニングDASH!DASH!

オスマン軍が投げ捨てていったものは、
豪華な宝石だけでなく✨宝石緑宝石白💎宝石白コインたち
🎪天幕をはじめ、模様を刻み込んだ金の兜カブト、螺鈿を施した小銃銃、象牙の柄🐘、刺繍を施した馬飾り🐎…………と、武具だけでも、壮麗極まりないもので、滞陣用品全てが✨美麗で、
ウィーン側の籠城する💂兵達が戦いを忘れ、うっとり眺める程だったといいます。

それから、もう一つ!!

「オスマン帝国外伝 シーズン4」でも、オスマン領🇾🇪イエメンから⛵帝都に☕コーヒーが届き、その後商人や大使から
🇮🇹イタリアや🇫🇷フランスに伝わったと⬇️触れましたが

老舗コーヒーカフェの多い🎻芸術の都🇦🇹ウィーンにコーヒーが伝わったのも、
⚔️オスマン軍のウィーン包囲網で、
オスマン軍が引き上げた後に、残っていたコーヒー豆を焙煎したのが🔥、ウィーンのコーヒー文化の始まり…………

と書きました📝

これに関して📖『ウィーン包囲』に載っていたの話をまとめると…

🇵🇱ポーランド系の貿易商👱ゲオルク・フランツ・コルシツキー
👳トルコ人の格好をし、敵陣を掻い潜り🤫密行を成し遂げ、
ウィーン陥落を防いだ褒美として拍手、土地やオスマン軍からの戦利品を与えられコインたち宝石ブルー宝石白宝石緑
その中にオスマン軍が残していったコーヒー豆が詰まった袋があったのをきっかけに
コルシツキーが🇦🇹ウィーン初のコーヒーカフェの創始者とされました。
🗿ウィーン4区にはコルシツキー小路と銅像があるそうで
画像はWikipediaからお借りしました⬆️

(この場所Kolschitzkygasseを調べたら🔍私、近くを🚶‍♀️歩いたことありました!
私が泊まった🏨ホテルは、🏛️ベルヴェデーレ宮殿のすぐ裏で、このコルシツキーの場所はベルヴェデーレの西に位置し🚉駅の近くで、早朝に一人で歩いた)

ところが、近年の研究によれば、それはある✝️司祭が拵えた都市伝説だったらしく🤔

実際にはウィーンでコーヒーカフェを最初に開いたのは、
1685年1月17日、やはり密使の一人であった🇦🇲アルメニア人のヨハネス・テオダートが、👑皇帝から許可を得て開店したのが始まりだそうで、🔰コーヒーキラキラ
そしてその翌年、コルシツキーをはじめとする3人(他の二人も元密偵)が、
20年間無税のコーヒーの小売りの特権を、手に入れたというのが、実情らしいです。


そしてもう一つ、
🇫🇷フランスにコーヒーが伝わったのは、オスマン帝国の大使からルイ14世へ献上されたと書きましたが、
これも📖ちょこっと載っていました⬇️

:::::::::::::

1669年7月、メフメト四世の使節が、フランスのヴェルサイユ宮殿で、🌞ルイ14世👑に謁見し、トルコ・コーヒーの、御手前を披露した。
それを取り巻く紳士淑女は、たちまちのうちにこのエキゾチックな飲み物に魅了され
フランスの貴族階級は先を争ってコーヒー専用の召使を雇い入れた。
それが彼らのステータスシンボルとなったのである。
:::::::::::::

しかし、コーヒーは刺激が強いので、夜眠れず、翌朝起きるのもずれ込むため、
召使がミルク🥛で割ったのが、✨コーヒーカフェオーレ誕生✨の秘話とありました。


ドラマでは、コーヒーが苦くて評判悪く、👳‍♀️ヤクップが再三「🥛ミルクで割ろう」とスンビュルに提案していましたが、

ヒュッレムが、ロクムと食べると苦味が消える事を🧐発見したので(笑)、
スンビュルはロクムと一緒に食べるのを勧め、ミルクで割るのを反対していました。

しかし、ヤクップが一人で店を任されてからは、お客に
「俺が発明したミルク入り」を勧めていましたよね?✨🥛コーヒー

そして前日、日本のロクムこと(?)胡桃ゆべしを頂いたので(笑)、
私も久しぶりにジャズベを引っ張り出してトルココーヒー淹れました✨🇹🇷☕✨
というか、ゆべしを貰って、
「………まだ🇹🇷☕トルココーヒーあったっけ?」と探し、
この本のことを思い出して💦、ブログを書き始めました(笑)

………が、☕粉が古かったこともあり💧、トルココーヒーは苦いだけでした😝
あと、🥄砂糖を入れてこそトルココーヒーは美味しいのかな?
(本来、粉と一緒に砂糖を混ぜて煮立てる)

それに一人分淹れたわけが、ジェズベにもこんなに粉が残ってしまった💧(暗くて見えない)

昔、🇬🇷グリークコーヒーを伝授され慣れた頃、年配女性に、コーヒーに🥛牛乳混ぜるよう言われました。

🇬🇷グリークコーヒー☕(トルココーヒー)をカプチーノカップに移し、
エスプレッソマシーンで作った温かいミルクを、それにたっぷり入れて
………こんな淹れ方、🤷邪道では?と思いつつ、言われた通りに淹れたら

「カラ、カララブラブ(🇬🇷グッド👍)
 グリークコーヒーそのままは苦すぎるわ。
 私はミルク入れないとウインク
みたいな事を言って飲んでいました。

後になって「びっくりあれがカプチーノの元祖だったのか?!」と思いましたが、
やはり🇫🇷フランスのように、各国で女性は🥛ミルクで割っていたんですね?🐮


あと去年、コーヒー飲まない友達から「貰い物だけど、私飲まないから………」と頂いた、
⬇️GODIVAのコーヒー☕

コーヒーサーバーで落としている時、スッゴく甘い良い香りが漂ってラブコーヒー
よく見ると、ヘーゼルナッツクリームと書いてあり、フレーバーコーヒー☕のようですね?!

………でも何杯か飲むと、普通の濃いコーヒーが飲みたくなってきて(笑)
これもトルココーヒーと共に、冷蔵庫の奥に残っていました口笛アセアセ

昔ほど、コーヒー飲まなくなったし、夫も最近は、朝しかコーヒー☕飲まないので…😥
それにコーヒー飲みたいと思う時は、濃いのを飲みたくなるし…

余談ですが、職場はブリックスコーヒーコーヒー
私は好きですウインク。今は🇮🇳インド産

話が🇦🇹ウィーンからかなり離れましたが💦
最後に、若い人にはピンとこないとおもいますが(笑)日本人のイメージする本場の
ウィーンナーコーヒー(Vienna coffee )こと🇩🇪アインシュペナー(Einspänner)
……🥧ザッハトルテが食べたい〜〜〜!!